リズムに関する本二冊

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ルートヴィヒ・クラーゲス杉浦実訳『リズムの本質』(みすず書房 1977年)

山崎正和『リズムの哲学ノート』(中央公論新社 2018年)

 

 以前から気になっていたリズムの本を読んでみました。クラーゲスの本は、学生時代に話題になった本で、当時友人がクラーゲスの名を連呼していたのを覚えています。山崎正和の本はクラーゲスについての章もあり、彼の著作から刺激を受け思考を発展させて成り立ったものと思います。山崎正和の著作は、『このアメリカ』『おんりい・いえすたでい‘60s』『柔らかい個人主義の誕生』『演技する精神』『文化開国への挑戦』など、ひと頃よく読みましたが、最近のものは読んでませんでした。高齢になり、重篤の病のただなかにあってもなお考え続けるその精神の強靭さには感心してしまいます。

 

 両者ともに共通するのは、西洋哲学の主流であった精神と物質の二元論に支配的である硬直した機械論的な見方を廃し、世界を流動し変化するものとして捉え、生命の脈動的なありかたに着目しているところです。異なる点を言えば、クラーゲスはリズム­=生命に特化して考えているのに対し、山崎正和の方は、身体論の成果などを取り入れ、科学研究などにも言及する視野の広いものになっていると感じました。

 

 『リズムの本質』は、冒頭でいきなり、リズムと拍子は異なるものと切りだし縷々説明が続くので狐につままれたようになり、同じようなものなのになぜそんなにこだわるのかと思いながら読んで行って、その違いが分かるようになった頃、ようやくこの本の目指すところが氷解しました。哲学書であり、難しい単語や言い回しも出てきますが、訳者がとても親切で、分かりやすく補いながら訳しており、事項訳注と人名訳注もあって懇切丁寧。また巻末の解説が、この本の骨子を要を得て簡潔に書いていて、本文で挫折した人はここだけ読めば大筋が理解ができると思います。

 

 いくつか曲解をまじえて要点を記しますと、

①人間が体験する現象の世界は、同じ事物にたいしても、5歳の幼児と70歳の老人は異なる風に受容し、また同一の人間であっても「おなじ川に二度入ることはできない」(ヘラクレイトス)ということを考えると、転変する無常の世界である。一方、事物の世界は無時間的、固着的である。

②同じ調子でハンマーを叩く音を聞くとき、客観的には存在しない二音に分節した強弱の周期的交替音を聞きとってしまう。リズムは現象の世界に属するもので無意識的な生命現象であり、拍子は意識の働きによる規則現象である。

③時間の持続を感じとることができるのは、各瞬間ごとの変化の類似性を把握できるからである。持続は分節があってはじめて持続と感じられる。

④生命は熟睡、麻酔、失神のあいだも活動している。一方、覚醒とは単に意識的なものではなく、覚醒のあいだも肉体感情の波打つ下を、無意識的な霊的直観(睡眠的なもの)が絶えず流れ続けており、覚醒と睡眠の時間的交替は生命のリズムの交替に根ざしてるだけの話だ。リズムの体験が意識下でなされる場合、緊張が解かれ睡眠状態に陥ることは皆が経験するところだ。

⑤時間的な現象は同時に空間的である。たとえば、笛の音を、音強、音高、音長、音色、音量で記述するだけでは不十分で、どこから聞こえてくるものかを書きとめなければならない。

⑥天と地、昼と夜、夏と冬、生長と衰弱、拘束と放逐など、自然や人間世界の周期的運動は両極の力関係から生ずるリズム的脈動であり、機械的な均等な分割のありかたとは異なっている。

⑦障害あるいは欠乏によって生命事象が高められるという事実があるように、リズムは拍子の抵抗に遇って屈折することで、顕著な働きを持つようになる。

 

 まとめていて、自分でもよく理解できてないことが分かりましたが、全般的に言えるのは、単調で機械的なものに対する反発がありありとうかがえるところで、メトロノームどおりに正確に演奏された音楽は機械的であるが、名指揮者は旋律が張りつめリズムに乗った演奏をすると書いたり、中世の石の建築は石の継ぎ目の多様性により壁面に生命を与えていると書くなど、職人芸的な流動性や多様性をリズム的なものとして重んじています。「もっとも完全な規則現象である機械の運動はリズムを否定する」とも書いていて、「リズム>拍子」のリズム一元論と言えるでしょう。

 

 『リズムの哲学ノート』も、なかなか難しくてすべて理解したとは言えませんが、著者の眼目は、文中で何度も書いているように、ギリシャ哲学以来の文明と自然、精神と物質、主体と客体などの二項対立を絶対視する偏見を克服しようとするところにあり、「あとがき」でも次のように書いています。「善といえば悪、光といえば闇、神といえば悪魔というように、一元論は必ずその反対物を呼び起こすのである。私はこのジレンマを解決するには、最初から内に反対物を含みこみ、反対物によって活力を強められるような現象を発見し、これを森羅万象の根源に置くほかはないと漠然と考えていた。そしてそういう現象がたぶんリズムだろうということも」(p253)

 

 身体と記憶、アスペクト、鹿おどし構造、ゲシュタルトの地と図、暗黙知などいくつかのキーワードがあり、それに沿って論点をまとめてみます。

①リズムと身体の関係について、リズムを感受するのは脳ではなく身体の全体であり、人が「波のリズムを感じる」と言うとき、真相は波のリズムがすでに波を離れ、身体そのもののリズムとなって拍動しているということである。また同じように、記憶は脳の産物ではなく、筋肉を含めた全身の作用である。泳ぐことも自転車に乗ることも身体で覚える他はない能力であり、練習とは身体から意識の関与を排除し、リズムの支配に委ねるための行動だと言える。

②同じ対象が観点によって違って見えるのが事物であり、対象ごとに唯一の観点しか許さないのが観念である。記憶は当初は受動的で、事物の複雑なアスペクト(多様な側面)のすべてを保とうとするが、次第に事物の素描化を進め、その素描化が極致に達し、アスペクトの数が一つにまで減じたとき、それが観念と呼ばれる。観念とは人が意識によって完全に操作できるようにした対象である。事物が事物らしい生々しさを帯びるのは、それが観念に区切られているからであり、観念もまた、区切るべき事物があって初めて成立しうる存在である。この相互依存性こそ二組の対立がそれぞれリズムの関係にあることを物語っている。

③リズムが生まれるにはまず運動の流動を堰き止める抵抗体が必要となる。このリズムの構造を体現しているのが日本庭園にある鹿おどしである。歩行を例に考えると、身体の行動にとっての空間は、疲れをもたらす源であり抵抗体である。一歩の適切な歩幅は、力の流動に「ため」を与え、それによって力を増幅するという意味で、鹿おどしに喩えられる。

ゲシュタルトの考えから、活力と疲労という例を見ると、畑を耕す人間にとっては最初は土や鋤が「図」であり、身体は行動の「地」となって陰に隠れているが、体が疲れると「図」は完全に身体に移る。が休息によって活力が回復すると、また「図」と「地」は交替する。ここには明らかにリズム構造があり、ゲシュタルトはリズム現象の一種と考えることができる。

暗黙知とは、個人の身についた知恵と技芸であり、科学研究を考えた場合、研究にヴィジョンを与えてそれを研究者に確信させる力は、暗黙知のなかからしか生まれてこない。一方、科学は、小さく分割された領域での因果関係の解明という分節知によって推し進められてきた。つまり、科学は暗黙知と分節知の相互促進的な協働、両者間のリズム構造であったともいえる。実は、この一見非論理的な見かけを持つ暗黙知も、それを深く究明すれば、内部には複雑な論理構造が畳み込まれていることが分かるのである。

 

 末尾に、ほぼ結論として次のようなことが書かれていました。「自然現象であれ文化現象であれ、そのなかでみずからが『運ばれて』いることを鋭く感知し、リズムに乗せられていることを自覚することが重要である。これは常識的には人が謙虚になるということだが、哲学的にはリズムの顕現が認識されるということである。人が『運ばれ』て生きている事実を自覚するには、藝術とスポーツに親しむことが格好の方途である」と。私は、芸術やスポーツよりは、麻雀がいちばんいいと思いますが。