マリネリ『牧歌』


ピーター・V・マリネリ藤井治彦訳『牧歌』(研究社 1973年)


 しばらく西洋の理想郷についての本を読もうと思います。東洋の理想郷としては、桃源郷が文学や絵画の世界でひとつの系譜を形作っていることは、これまでも芳賀徹の著書などで見てきましたが、この本は、それに対比される西洋の理想郷のアルカディアを歌った牧歌が西洋文学の一つの系譜をなしていることを歴史的に追っています。

 研究者の「文学批評ゼミナール」というテーマに沿ってコンパクトにまとめたシリーズですが、小冊子ながら、基本的な問題点をふまえて分かりやすく書かれています。

①まず、歴史的な俯瞰について。テオクリトスが初めてシチリア島の少年時代の追憶の風景を牧歌として歌い、その影響を受けてヴェルギリウスが理想を投影したアルカディアという土地に移し替えて歌ったが、その後1000年間忘れ去られていた。サンナザーロが『アルカディア』という作品で復活させ、スペンサー、ミルトン、ポープと受け継がれていったが、従来の土地としてのアルカディアは、18世紀には機能を失っていった。しかし19世紀以降、アルカディアを子どもの世界に見出すようになり、新たな形で存続されることになった。

②牧歌の書き手について。牧歌のなかには、コリンとかフィリスという牧人や牧人の娘全体を代表する名称があるが、これらは文学の中でしか機能を果たしておらず、本当の牧人ではない。書き手の関心は愛と詩歌であり、牧人は、詩歌を作る契機となっているに過ぎない。実際に牧人に近い人が詩を書く場合、彼らは自分たちの粗野な状態は歌わず、洗練された文体で詩を書こうとする。つまり、子どもが幼年時代の賛美を自らは書きはしないのと同様に、本物の牧人は別に牧歌など書きはしないのである。

③牧歌が成立する場について。無垢な世界が失われたと感じ、しかもその喪失感が、その世界の記憶を破壊するほど激しくない場合、つまり現実と過去の世界の行き来が可能である状態のとき、牧歌が成り立つ。牧歌は今日のように牛を見たことのない子どもがあり得る時代には書かれない。さらに牧歌は都市においてこそ生まれる。つねに複雑さに向かう都市の生活を逃れようとする衝動である。

④牧歌がもたらす行く末について。都市の住人がアルカディアに逃れ、牧人の杖を携えてみても、「人は眺める空を変えることができても、その心の中や考え方を変えることはできない」のであり、自然な世界と考えていた世界が無垢な姿を失い、抱えている問題をますます強く意識することになる。牧歌世界はアイロニーの源泉となる。つまり、単純さのゆえに求められたまさにその場所で、きわめて複雑な事態が生じるわけである。

⑤牧歌を巡る価値の相克について。牧歌的な生活は、観照的で、快楽と高潔な閑暇に捧げられている。その世界から見れば、航海、探究、戦争などの英雄的行為や英雄的叙事詩は、頽廃的ということになる。観想と行動の二つの世界の対決は、牧人と宮廷人の対決、牧歌と叙事詩の対決に反映している。この二つの価値は、それぞれ行き過ぎると、一方は競争の放棄と怠惰、他方は貪欲と専制に陥る。

⑥牧歌の伝統の二つの形について。牧歌は異教的な伝統の中に生まれたが、キリスト教的な伝統のなかにも、失われた無垢の神話があり、それがエデンの園である。アダムの堕罪の結果、庭園から放逐され都市を創造することになる。堕罪以前には自然の中で至福が得られたが、堕罪後は、教育、法律、習慣など、人工のものを習得しなければ至福が得られないこととなった。

⑦牧歌的時代の未来における実現について。自然と人工のどちらによって至福が達成されるかという点では、人工の方が、未来の楽園の可能性を持っている。都市とその社会の創造はまさに人間を動物から区別するものであり、楽園でのアダムの至福を味わうことがもうできないのであれば、都市を可能な限り楽園に近いものとするために、不断の努力をすべきである。

 アルカディアや牧人の存在は、東洋では何に当るだろうかと考えてみました。宮廷人との対比で語られる牧人としては、真っ先に、中国の士大夫が政治から離れて隠逸する形と似ているのを思い出しますし、閉ざされた田園の中での満ち足りた生活という点では、桃源郷の農村が思い浮かびます。日本では、牧歌にあたるものが、『萬葉集』の田園や農耕を歌ったなかに見出せるような気がしますが、よく覚えてません。またそのうち。