ハリー・レヴィン『ルネッサンスにおける黄金時代の神話』


ハリー・レヴィン若林節子訳『ルネッサンスにおける黄金時代の神話』(ありえす書房 1988年)


 ルネッサンス期に、黄金時代の神話がどのように受容されていたかを探究した本。前回の『牧歌』同様、分かりやすく、よくまとまっていて、かついろんな刺激的な議論が含まれていました。個人的に面白く感じたのは、下記のような論点です。
①黄金時代という概念は漠然としており、ひとつの筋のある物語を語るのではなく、むしろ気分を伝えるものである。黄金時代の特徴については、「~がない」という否定の形でしか説明されず、肯定的な理想については漠然としか語られていない。黄金時代の人々は、天才の事績も、見事な円柱も、絵画も、詩歌も、何一つとして残してはいない。結局、黄金時代とは、人類は過去において至福の状態にあったのだという郷愁に満ちた幻想による一種の文明批評に他ならない。

②新大陸発見後、新世界の住人たちは黄金時代に生きているとする見方が出てきた。ブラジルのインディオと直接面談したモンテーニュは、『エセー』のなかで、統治者もなく、貧富の差もなく、土地を耕すこともなく、嘘、偽善、貪欲などを意味する言葉のない自然のままの生活をしている新世界の人々は、野生ではあるが野蛮ではなく、むしろ人為によって腐敗した旧世界の住人の方が野蛮ではないかと問いかけ、ロマン主義運動の原始主義思想の源流となった。→マルクスの元にはルソーの不平等起源論があると思うが、そのまた奥にモンテーニュが居たとは。

モンテーニュは、三人の人食い人種と会って、その対話を詳細に記録しているが、彼らのヨーロッパに対する第一の批判は、たくましいスイス人の護衛兵が、たまたま国王になっているほんの子どもの命令に従順なのは奇妙であること。第二に、あらゆる種類の物品に埋もれて生活している富者がある一方、貧しい人は飢えのために痩せ衰えて、富者の門前に食を乞うていること。そして、そのような不公平をじっと堪え忍んでいるだけで、どうして富める人たちの喉を絞めようとも、その家を焼き払おうともしないのかということ。→気持ちは分かりますね。

④トーマス・モーアに安藤昌益のような考えがあったのに驚いた。「むなしい快楽の種を考案する人々などには、多額の料金と報償金を支払っているのに、逆に、国家が存続して行くためにはなくてはならない百姓、炭鉱夫、人夫、車夫、鍛冶屋、大工などといった貧しい人々の面倒は何も見てやらない国家こそ、不正で思いやりのない国家ではないでしょうか」(『ユートピア』)。→ますます義憤を感じてしまいます。

⑤執筆当時、アメリカで流行していたヒッピー運動について言及があり、平和と愛の象徴として花を身体につけて歩く「フラワー・ピープル」の若者たちを、黄金時代の神話の系譜上に置いている。

⑥鉄の時代に転じるのに大きな役割を果たしたものとして、火薬、大砲を挙げており、「大砲の発明・・・のせいで、恥知らずで、卑怯で、下劣で、臆病な者の腕に、比ぶ者なき勇敢な騎士の生命を奪い取る力が与えられることになった」と『ドン・キホーテ』から引用をしている。別のところでは、囲われていなかった草地を囲い込んで牧草地にするという財産所有意識を、最悪の原因として言及している。→ほかに黄金時代から鉄の時代に移行する際のいくつかの決定的な要因を考えてみると、青銅器・鉄器の登場、貨幣の誕生、蒸気動力機関、さらに原子力の発明が思い浮かぶ。

⑦黄金時代を描いた絵が少ないことについて、アルカディアは空間的概念であるから絵画として表現しやすいのに対し、黄金時代は時間的概念であるから物語には適しているが、絵画になりにくいこと。また画家という存在が権力者の庇護下にあったことにより、王侯貴族たちの名声を高めるような壮大な表現様式が求められ、現状批判的なものや平和的なものは避けられたので、黄金時代はテーマとなりにくかったことを指摘している。

 この本で、ドイツの諷刺作家ブラントが、愚行の中に「清貧を軽蔑すること」を入れており、黄金世界では金銭を持たない人を軽蔑したりはしなかったというのを読んで、反省の念が湧きました。私が子どもの頃は、金持ちはどちらかというと軽蔑されていて貧しさが尊ばれるようなところがありましたが、私が大人になったころから、とくにバブルあたりから、金持ちが尊敬される世の中になってきたと思います。テレビでも、贅沢で美味しいものの情報が花盛り。欲望を抑えることを学ばなくては。


 いくつか格言を思わせるような印象的な短いフレーズがありました。

愚かにも詩人は、羊飼いが羊よりも羊飼いの娘を追い回すことに精を出すものだと考えている/p36

私たちがギリシア・ローマを振り返って見ても、彼らもまた過去を振り返っていることが分かるのである/p69

タッソにとっては「喜ばしいものは法にかなう」・・・グアリーニにとっては「法にかなっているものは喜ばしい」/p101

タッソが「好きなことなら何をしてもかまわぬ」と主張すると、公女はそれを「ふさわしいことなら何をしてもかまわぬ」と訂正する/p102

私が猫と戯れているとき、猫の方こそ私を相手に暇つぶしをしているのではあるまいか(モンテーニュ)/p138

希望は、過ぎ去ったものを思い出したりしないもの(ドレートン)/p190

生きるために、すべてのものを得たのであって、得るために生きたのではなかった(アレグザンダー)/p194

喜ばせるために生きているわれわれは、生きるために喜ばせねばなりませんから(サミュエル・ジョンソン)/p201

楽園が空にあるという考えは新しい時代の天文学者たちによって時代遅れのものとされてしまった/p297

改めて権力を行使し直すためには、まず権力を有しなければならないのである/p308