:杉山二郎の雑誌連載随筆二冊

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杉山二郎『風鐸―歳時風物誌』(瑠璃書房 1985年)
杉山二郎『山紫水明綺譚―京洛の文学散歩』(冨山房インターナショナル 2010年)


 この二冊はいずれも雑誌連載を本にまとめたもので、『風鐸』が1973年から74年にかけての「週刊時事」、『山紫水明譚』は1994年から97年にかけて仏教大学通信講座の機関誌「鷹陵」と丸善の「学燈」に連載したもの。これまで読んできたのと違って、学術探求の成果を公にする本ではなく、個人的な趣味を披歴する随筆であり、明治や江戸期の文人の書いたものへの言及が多く、テイストがよく似ています。

 しばしば引用されたのは、喜田川守貞『近世風俗志』、『守貞漫稿』、喜多村信節『喜遊笑覧』、斎藤月岑『武江年表』、小鹿島果編『日本災異志』、それに『諸橋漢和』など。言及されている文人は、江戸期の中島棕隠、菅茶山、明治では木下杢太郎を筆頭に、森鴎外幸田露伴永井荷風内藤湖南、近いところでは青木正児、富士川英郎島田謹二生田耕作らの名前が見えます。


 『風鐸』は、季節ごとに章分けされた歳時記で、屠蘇や雑煮の話題から始まって、節分、雛祭り、花見、台風、菊花酒、除夜の鐘…と正月早々に一年を速足で体験することができました。それぞれの行事について、その成り立ちや蘊蓄を、昔の日本、中国の文献を引用しながら語っています。一言でいえば風流の書。

 江戸時代には、九月九日の重陽節句に近郊の高い所に登って酒を飲む風習が、儒者文人墨客の趣味にかなったらしくかなり行われていたこと(p146)、また菅茶山の詩に、江戸の友人たちが月見酒をしている様子を思う句があって、「酒を携えて誰の家、また酒楼に、船を大河に出してどこか洲汀あたりに留めて、観月の歓楽に酔う姿を見る心地がする」(杉山二郎訳述)(p154)と書いているのを読んで、今年こそ月見酒を実現したくなりました。


 『山紫水明譚』は、東京生まれの著者が週三日京都に滞在することになったのをきっかけとして、文人たちの京都に関する見聞録を通して自らの想いを綴ったもので、前半は荷風、杢太郎、鴎外の京都探訪記を紹介し、次に江戸期文人の描いた京都を東京と比較したり、京都の老舗古本屋の逸話を語ったりし、最後には「小便の替え物」という古の京都風俗の尾籠な話題に終始しています。漢詩がたくさん引用されるのが、どうも苦手で難渋してしまいました。

 いまさらながらですが、荷風の『牡丹の客』の引用を読んで、雨上がりの神田川の夕暮を描いたところは、アンリ・ド・レニエの「青髭六度目の結婚」(『碧玉の杖』所収)のヴェニスの水辺の描写とよく似た雰囲気なのに気づきました。レニエの文章からかなり影響を受けているようです。

 この本でも、鴨川の床で大文字見物の際、女将がこの酒を飲めば中風の予防になると言って、傾けた盃に大文字の火を映して見せた思い出を語ったり(p85)、季節ごとに風月を賞して楽しみとしていた江戸の詩人たちに思いを馳せ、そうした慣習も興趣も失せた大正の世を嘆く荷風の言葉を引用したりなど(p154)、風流への思いが吐露されています。

 恥ずかしながら、永井荷風が東京外語の支那語学科を卒業したことや、森鴎外が帝室博物館総長兼図書頭となって、正倉院宝庫曝涼のため奈良に滞在したことなど、はじめて知ったか失念していたか。また、鴎外の「奈良五十首」の冒頭の句、「京はわが先づ車よりおり立ちて古本あさり日をくらす街」というのは、わが古本倶楽部の経典にもすべきもの。


 その他、印象深かった部分を引用しておきます。

イラン高原に出土する土器片には、奇妙な黒色彩画文様・・・干乾びた棘草がその模様のヒントになっていることに気づいた。・・・わたくしたちが捨てて顧みない棘草に生活感情を移入して、愛情に濡れた眼で対していた姿を想うと、むしろ神が人間に与えた美意識の在り様を感嘆したくさえなる(p78)。

人工冷房の起源は、どうやら紀元前の西アジアにあったらしい。・・・唐代の長安にも自雨亭とか涼殿といった建物があった・・・「夏でも凛として高秋の如し」といわれた(p106)

西瓜・・・イラン高原で見たのは、枕の化け物みたような西瓜が普通で、名前も“ヘンダワネ”とまことに変なものであった(p131)。

以上『風鐸』より

京洛の地だって団栗辻の大火があったり・・・・規模が小さくてもかなりの頻度で焼けている・・・天徳四年(960)より天明八年(1788)に至る八百二十九年、内裡(だいり)炎上二十二度(p16)。

アナトール・フランスの感想録に佳樹(Bel arbre)と静思(Calme pensée)とこの二者より麗しきものは世になしとの意を示した語があった(荷風)(p76)。

以上『山紫水明綺譚』より