:杉山二郎『大仏再興』


                                   
杉山二郎『大仏再興』(学生社 1999年)

                                   
 これで、大仏三部作の一応の完結と謳っていますが、まだかなり書き残していることが、最後の文章「中世から近世の推移として記述するには、さらに一冊の本を必要とする」や「作後贅言(あとがき)」の「大仏の運命帰趨の在り様を叙するとなると、未練がましいがもう一冊を必要とする」と何度も出てくる言葉で分かります。いくら書いても次から次へと湧いてくるみたいで、旺盛な筆力が羨ましい。

 ただ、この本は前二作に比べると、資料の引用が多く、漢字がゴテゴテと詰まって並んでいて、読みにくいこと限りなし。途中から読み飛ばしたので、かえって早く読めたくらいです。また本筋から逸脱して延々と別の話に脱線する傾向があり、院政から平氏の話にかけてのところなど、途中でなぜこんな話になっているか忘れてしまいました。

 奈良に住んでいる者としては、これで鎌倉期ぐらいまでの奈良の様子がだいたい分ったような気になりましたが、いちばん恐ろしく思ったのは、827年に奈良で半年に及ぶ頻発地震があり、それが原因で大仏が傾き背後に山を築かざるを得なくなったこと、またそれが遠因となって大仏の首が落ちたということです。奈良は地震があまりないだろうと高をくくっていましたが、心配になってきました。他にも、落雷による七重大塔の焼失、台風による南大門の倒壊、釣鐘の落下など、自然災害が何度も襲っていたことが分かります。しかしもっとも被害が大きかったのが戦乱で、源平合戦に捲き込まれて、東大寺興福寺が大半焼き尽くされたというのには人間の愚かさを感じてしまいます。

 もう一つ印象的だったのは、この本でも重きをなす高岳真如法親王のところで、澁澤龍彦の『高岳親王航海記』に言及されていることで、何と杉山二郎と澁澤龍彦が府立五中(小石川高等学校)の同窓(同じ年生まれなので同期?)で学生時代からの知り合いだったことです。この本を書いた時すでに澁澤は亡くなっていましたが、もし生きていて対談などしていたら面白かったでしょう。


 上記の他にこの本で述べられている主要な論点をいくつか抜粋しておきます。
①大仏の修復には多大の寄進を必要としたが、それらを支えたのは奈良京都の大きな寺のみならず、葬送儀礼を中心とした庶民に身近な小さな寺々で、すなわち大衆的な支えが見られたこと、また当時、宮廷人たちが天台密教真言密教の呪術祈禱に熱中していたなか、南都仏教界が地道に活動していた様子が伺えること。
空海は語学力に優れ梵語も解し、海運業者の御曹子だったので唐には私費留学した。政府派遣の最澄と好対照で、帰朝後、最澄比叡山という京都の死命を制する地の利を握ることができたのに対し、空海役小角の跡を追うような山岳修行を転々とし、かろうじて平安京の最南端の東寺に拠って、比叡山延暦寺に対抗しようとしたこと。また空海は中国から多くの経典を持ち帰ったが、最澄は乏しかったので、最澄の弟子たちが必死で中国から経典を補填しようとしたこと。
信貴山の命蓮、白山の泰澄など、飛鉢法を用いた天台系遊行聖の系譜がある。飛鉢というのは、山岳を忍者のように飛ぶような駿足をすることの比喩であり、7世紀のインド人の法道仙人もその系譜上の一人である。それはまた富山の薬売りのルーツでもある。
遣唐使を廃絶することとなった外面的理由は、自然遭難や新羅海賊の出没であり、内面的には唐朝の衰微と日本人自身の文化的自覚による。悪く言えば慢心による消極的風潮が貴族のなかに蔓延していた。廃絶により個人の海外交通が禁止されたが、密貿易に乗り出していた航海業者の助力により積極的に入宋を試みる僧が増えた。
⑤説教僧空也の作と伝えられる六波羅蜜寺の本尊十一面観音八尺像は、台座の下に車輪が付いている。疫病の猖獗している京洛の巷に仏像を持ち出して鎮災辟邪を祈念したのだろう。行像は中国洛陽で六朝時代に盛行したものであるが、山車のルーツは遥かバビロニアに遡り、現在インドの各地のヒンドゥー教祭礼にも姿を留めている。こうした行像山車、山鉾に祇園祭礼がつながっている。
東大寺再興事業の中心だった重源は、周防や播磨など大仏再興に必要な杣場や交通要衝の各地に別所を造立し、教化の場とするとともに、西アジア起源の浴室(サウナ)を設け作業員の労をねぎらった。別所の来迎形式の阿弥陀三尊像のかなりの部分が快慶及びその弟子たちにより造られたと思われる。


 細かいところで印象深かったのは、
①827年の地震の頻発に対して、当時の天皇淳和天皇)が詔勅を発布し、「何かが欠けているからで、過ちはどこかにあり、それは私の責任だ」と自戒しているのが凄い。
②嵯峨清凉寺の三国伝来釈迦如来立像の胎内から布製の五臓六腑が出てきている。その像が請来されたのは『解体新書』の遥か以前(10世紀)であるが、中国では北宋時代すでに人体解剖が行われ図が描かれていて、仏像を造った北宋の仏工張栄がそれを知っていたということ。
③海外渡航の禁止後、呉越王の交易希望を日本の右大臣藤原朝臣が婉曲に断っているが、その時お土産をちゃっかりもらっている時の言い訳が面白い。「これを断りますと恐らく親しい交わりが嫌なのだと言われかねませんので、無理にも頂戴いたしましょう」。