:日本の迷宮的小説2冊

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竹本健治匣の中の失楽新本格推理の原点』(講談社ノベルス 1991年)
大西巨人『迷宮』(光文社文庫 2003年)

                                   
 この2冊を同列に並べるのはとんでもないことでしょうが、たまたま同じ時期に読んだというだけで他意はありません。共通項は、大西巨人の作も推理小説的興味を持っていることですが、また別の意味で共通するのは、両者ともかなりの怪作という印象を受けるところでしょうか。


 『匣の中の失楽』については、最近あまり推理小説を読んでいないので、この作品が現在どういう位置づけになっているのかよく分かりません。むかし「幻影城」という雑誌で大きく取り上げられていた頃、『ドグラ・マグラ』や『虚無への供物』の系列作として話題になっていたような記憶があります。

(ここからネタバレ厳重注意!まだ作品を読んでない人は読まない方がいいです)
 小説を安心して読んでいると、二章の冒頭で、序章と一章がまるまる、登場人物の一人が書いた小説だったということが判り、何だとまた安心しきって二章を読み終わると、今度はまた、その第二章がフィクションで序章と一章が現実だったという話になり、さらに四章でまた第二章で書かれていたことが現実だったことになり、五章がまた三章から続いたストーリーになるという具合。途中まで読み進んで、これはルビンの壺のように地と絵が反転しながら進んでいると思っていたら、案の定ルビンの壺(とは直接書いていないが)の話が出てきました(p287)。

 登場人物たちも、自分らが登場する小説のことを意識して、次のような会話を繰り広げます。「現実の出来事と架空の出来事が互い違いに進行してゆく趣向なんだろう? そうするとだよ、仮に、小説が完成したとして、僕らのことを全く知らない第三者がこれを読む場合、一体どちらを現実のことだと思うんだろうか」(p285)、「もしかして今こうしている俺達は、この『いかにして密室はつくられたか』という小説の登場人物なのかも知れないぜ」(p289)。こういうのはメタ小説というのでしょうか。

 この手法のいけないところは、同じ作品中であまり頻繁に使われると、読者の作者への信頼というものが希薄になってしまうところです。読者は、作者が読者をまどわせて喜んでいるだけじゃないかと感じ、狼少年のように思って、書いてあることが現実(作品のなかの)だとは信用しなくなってしまうわけです。

 この作品のいちばんの特色はそうしたメタ小説的な仕掛けにあると思いますが、作品のトリックも風変わりで、密室を中心とした謎や風変わりな暗号が次々と提示され、ところどころ『虚無への供物』を思わせて胸がわくわくする箇所がありました。現実には無理な設定があるにせよ、なかなかよく考えられていると思いました。

 しかし、『死霊』を模したような奇矯な登場人物たちが繰り広げる会話の内容には、荒唐無稽で無駄な部分が多く、学生が自分の持っている知識を総動員したという感じがあり、しかもその範囲がかなり限られた趣味、あるいは時代を感じさせる流行的知識に留まっているのが、浅薄な印象の原因となっています。著者自身も「自分の青臭さを見せつけられる」(p474)と「あとがき」で告白していますが。

 久しぶりに推理小説を読んで、途中で何度も、前のページに戻って確かめながら読むという推理小説ならではの読み方を思い出しました。


 『迷宮』は、そのタイトルを見て迷宮小説なのかなと思って読んだのが間違いで、作者の主張が強く盛り込まれた普通の小説で(というか評論に近い)、推理小説的味付けのある作品です。しかも、ここでいう「迷宮」は迷宮入りの意味での迷宮で、私の期待していた幻想小説ではなく、しかも、混迷を深めたまま終わると思っていた物語の謎も、結局、迷宮入りにならずにあっさりと解決してしまうので、がっかりしました。

 この作品が怪作というのは、叙述の仕方がかなり癖のある作品だからです。出版社に勤めている主人公が、尊敬していた元作家の叔父の自殺死に不信を抱いて、真相を追及するという筋書きですが、元作家との昔の会話の記憶や、元作家の文章、講演記録を辿りながら、元作家の考えを、新聞記事のような具体的客観的な文章で抜き出して叙述し、論理的に組み立てて行こうとします。ただ論理的であろうとするあまりか、全体としては冗長な説明に堕していて、同じことが何度も繰り返されるので、物語は遅々として展開しません。

  おそらく作者の本意は、作品のなかで元作家の考えとして提出された、「作家のあるべき姿と使命」や「死」についての考えを読者に訴えることにあるのでしょう。例えば、
「相撲取り・・・『人格者』扱いにされだしたり、観衆から妙に同情的な大声援を受けだしたり、するようになったら、もう彼は、衰退の一途を辿っている。ほかのどの分野でも、事の本質は、おなじだ。」(p72)とか、
「会葬者が百数十人だの数百人だのの『密葬』が行なわれた・・・その『密葬』のあとで、会葬者数百人とか千数百人とかの『本葬』が執行されたり・・・それも、政界や実業界や芸能界でのことなら、まだしもというか、とりあえず仕方がないかもしれぬが、学芸・文芸の世界でも、そういうみっともない現象が少なくない。」(p106)とか
「言論・表現公表者の作物は、必ず常に『社会一般に施す法として考えた場合のもの』として世に出されねばならず、また社会からそのようなものとして享受されることを覚悟していなければなりません。」(p201)

 などですが、こうしたストイックな考えの一方で、
「『売れぬ著書こそ価値がある』というような文芸観の所有者・・・私は、そんな高潔な・そんな頓馬な人間ではない。」(p139)、「『出版』の反意語は、『筺底に秘す』であろうか、―私は、私の作品を『筺底に秘』しておくことなく上梓した以上、それがなるたけたくさん売れることをも願望せざるを得ない。」(p141)とも書いています。がやはり、著者の考え方には、かなりこわばったところがあるという印象はぬぐえません。社会主義者にありがちな頭でっかちで潔癖症的な性格がついて回っているのでしょう。

 死については、まず、認知症患者の自死あるいは認知症を恐れての自死を肯定しようという考えがこの作品の中心的な主題となって、これは今日的なテーマを先取りしたものと言えます。また他にも、革命家は路上で野犬のような死を死なねばならず、歴史と芸術がそれを正確に照らすといった言葉や(p28)、葬儀や墓を否定する唯物論的な考え(p95)が披露されていていましたが、美人の記憶も自分が死ねばこの世から消えると、美のはかなさを嘆きつつ相手の美女を讃えるウォルター・デ・ラ・メアの短詩〝An Epitaph″(『ある墓碑銘』)(p113)からの引用がいちばん印象的でした。