:日本の幻夢小説2冊

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森内俊雄『夢のはじまり』(福武文庫 1987年)
藤沢周『境界』(講談社 1998年)
                                   
 次は日本の作家の作品ですが、何か脈絡があって選んだわけでもありません。たまたま最近買ったものから選んでみました。


 森内俊雄は、むかし『真名仮名の記』を読んで、古井由吉と似た濃密な文体を持ちながら、ところどころ開高健を思わせる口ごもりながら断言する風のフレーズが散りばめられていて、詩的美的な世界を構築しているという印象がすばらしかっただけに、今回は期待外れの感が強い。

 何がその原因か考えてみますと、東京近郊の標準サラリーマンをモデルとしたような私小説的な生活臭がつきまとっていて、何か薄っぺらな感じになってしまっているところでしょうか。その上さらに印象のよくないのが、私小説の悪い伝統か、不倫の男女関係を何か得意げに書き連ねた作品群で、全部で15編の短編が収められているうちの6篇までもが毒されていました。

 かろうじて、面白かったのは、昼間の姿はどんどん薄くなるが(これは形容ではなく本当に薄くなって最後は消えてしまう)、深夜家族と大はしゃぎするサラリーマンが主人公の、虚無的な明るさの漂うSF的寓話「夢のはじまり」、死んでも死んでも生き返ってくるが、生き返るたびに前世の死因である交通事故等の後遺症を引きずって、満身創痍になっていく男の転生譚「降誕祭」、大飯喰いというだけの存在で、無為無戸籍の女の不気味さが迫ってくる「月下氷人」、それに、石を蒐める趣味の運転手が話しかけてくる不思議な味わいのある「石よみがえる日」の4編でしょうか。
 幻想の現れ方も、各短編まちまちで、大きく分けると、
①不倫の罪悪感が見させる妻の幽霊や(「門を出て」)、妻の魂の変化である蠅(「蠅」)、不倫相手に降ろさせた水子の幽霊(「黒い蝶」)が出てくる幽霊譚。
②死者がそのままゾンビのように動く鬼人譚(「死者還る」)。
③スナックで飲んでいると30年前学生時代に行ったスナックに通じてしまう異界譚(「白い扉」)、
④嚥薬として蛆虫を瓶の中で飼う話(「瓶の顔」)や死んで生れた胎児が屍体の母親の乳房に齧りつく(「雨祭」)という気持ち悪い場面のあるグロテスク譚。
⑤現実と取り留めもない思念が入り混じる二日酔いの頭の中を描く幻夢譚(「薄陽」)
⑥大飯喰い女(「月下氷人」)や石を蒐める男(「石よみがえる日」)などの奇人奇癖譚、といったところになるでしょうか。
それ以外まったく怪異の起らない短篇もありました(「カーネーション」「浮人形」)。

                                   
 藤沢周『境界』も、あまり悪いことは書きたくはないですが、現代的知識の表層がちりばめられているだけの浅薄な印象が否めません。やたらとカタカナ言葉が出てくることや、自然の風景が出てこないのがそうした印象を強めているのかもしれません。しかし、ところどころハッとするような場面があります。
 例えば、主人公ミツハシカズヒコが、精神神経科のドクターであるクラチという女性と話をしていて、本当の自分は香港のマンションの部屋でクラチという女性と寝ながら、ここで二人が話ししているのを想像しているのだと考える場面(p91)とか、クラチと別れクラチの運転する車のテールランプが遠ざかっていくのを見ながら、「頭の奥の方で、乗り物酔いに似た感触があって、それがクラチのクルマのバックミラーに映って遠ざかっていく自分の姿を自分自身が見ている幻覚のせいだと気づいた。」という場面(p93)、あるいは、クラチの携帯電話に電話がかかってきて、クラチがその携帯電話を差し出し「あなたから・・・ミツハシカズヒコから・・・」と言う場面(p131)。

 これらの幻想は、すべて離人症的な現象を描いています。この作品全体を通して、精神に異常をきたしているのではないかという主人公の不安と怖れを内面から描いていて、現実と非現実の間を揺れ動く不安定さがテーマになっているだけに、こちらのほうが、カイヨワの言う「現実への非現実の乱入」が顕著に見られる幻想小説ということになるでしょうか。