:ロブ=グリエ平岡篤頼訳『迷路のなかで』

                                   
ロブ=グリエ平岡篤頼訳『迷路のなかで』(講談社文芸文庫 1998年)
                                   
 「幻想小説」と書くともはや手垢がつき過ぎたという感じで、恥ずかしさが先立ってしまいますが、これからしばらく幻想小説を読んでいこうと思っています。ロジェ・カイヨワが定義した「現実の中に非現実なものが介入してくる」という意味での幻想小説です。もともと学生時代には幻想小説を中心に読んでいたので、また昔に戻ったというべきでしょうか。幻想小説にもいろんな形があると思いますので、作品ごとにそれを見ていきたいと思います。


 ロブ=グリエについては、昔ヌーボー・ロマンが一世を風靡した時に、「去年マリエンバードで」とか「不滅の女」の映画を見たり、その原作や『覗く人』を読んだりした記憶があります。今回『迷路のなかで』を読んでその時感じた印象(ぼんやりとしか覚えてませんが)とほぼ同じものを感じました。

 そのいちばん大きなものは、小説の技法が試されているということ。20世紀に入って、音楽や美術、演劇の世界で、表現の方法にこだわったいろんな主張が繰り広げられましたが、小説の世界でそれに呼応したものという印象です。

 でそれは何か、その特徴をいくつかばらばらと挙げますと、
①まず、ある文章のまとまりの中では、徹底的なリアリズムが貫かれていること。客観的な眼差しが叙述を進行させていて、停まった時間の中をカメラがスパン、ズームするような感じで克明に情景を描写していて、また動きについてもスローモーションを見るかのように事細かに描かれています。この根底にあるのは科学的な観察力です。ロブ=グリエはもともと理科系の出身のようなので、これは理科系的センスが培ったものなんでしょう。そこには一見論理的な、というか論理的であろうとする意志が感じられます。またそれが不思議なことに詩情さえ醸し出しているのです(岩成達也はロブ=グリエの影響を明らかに受けている)。

②そしてその文章のまとまりが、さらに次に展開していく時に、「反復」がひとつの方法として取られていることです。そして同じものが反復されているようで、少しずつ何かがずれていったり、どこかに矛盾が出てきたりします。その矛盾はどうもわざと仕掛けられているようです。そこに記憶力が試されているような、頭が混乱するような感じを受け、奇妙な感情が沸き起こるわけです。これはジャズの即興演奏にも似ているという印象を受けると同時に、ケルト文様やアラベスク文様の世界にも通じるものではないかと思い当りました。

③別の味方をすれば、キュビズムを小説に応用したものとも言える気がします。同じものをいろんな視点から見ていて、それを一続きの場面の中で表わしているわけです。なので時間が自由に過去に遡っていたり、場所が知らぬ間に別の場所に移行していたり、現実が絵の中の世界に入っていたりするわけです。

 さらに大きく全体を見渡しますと、この物語にはおぼろげにストーリーらしきものがあり、読者を牽引していくのは、ほの見える謎です。その謎とは、
①主人公の兵士が誰かと落ち合う約束をしていたが、とにかくその人に会えば分かるということだけで、誰と会うのかも、どこで会うのか通りの名前もはっきり思い出せないこと。
②主人公の兵士は箱を所持していて、どうやらその箱を相手に渡さなければならないらしいこと。
③聞いた話では部隊の中にスパイがいるらしいこと、もしかして自分がスパイかも知れないこと。
という状況の中にいて、それが解決されるのかどうか。
④どうやらライヘンフェルスというところで攻防戦があり、司令部の無気力で、ほとんど戦わずして敗北したこと。その戦いに主人公の兵士もかかわっていたらしきこと。

 全体の構成では、話者が物語を進行させますが、話者の居る部屋が通奏低音のように物語のあちこちに出てきます。冒頭しばらくは話者の「私」が前面に出てきて、話者の部屋の様子を描写しつつ、次第に外へと移っていき、兵士を登場させます。そこから兵士の物語が始まって、街路や居酒屋や兵舎が次々舞台となりますが、話者の部屋(p76、p121)も含め、それらの舞台が何度も繰り返し登場します。そしてまた「私」が出てくるのは、最後のほうになってからです(p209)。

 不思議なのは、冒頭部ですでに話者の部屋の棚の上には兵士が持っていたと思しき箱が出てきますし、最後のシーンでも、話者の部屋に途中の登場人物の一人が持っていたらしきコウモリ傘が立てかけてあったりします。いったい話者は何者なのでしょうか。

 
 この小説が兵士を主人公にしたことにはいろんな意味があると思います。
①この本が書かれたのは1950年代、戦争の直後と言ってもいいので、戦時の思い出がまだ生々しく残っていた。
②兵士というのは無個性的存在なので、抽象的な物語を展開する場合には、使いやすいこと。カフカのKのような響きがある。
③また兵士にはどこか運命に忍従するというようなストイックな男らしい情感が漂っていて、それがこの物語の荒涼としてさびしげな雰囲気にうまく溶け合っている。


 この小説はタイトルのとおり、迷宮的小説と言えるでしょう。物語の最後は「その輪郭をはっきりとらえようとすると、しまいに目がくらみ、それは壁紙をかざるあまりにこまかい図案についても、またフェルトの室内ばきがほこりの上に描いた、うっすら光る通路のあまりにもぼんやりした境界についてもおなじで、・・・ひとたび玄関の戸口を越えるや、次から次へとつづく長い廊下、螺旋状の階段、石段がひとつついてるこの建物の表ドアについても、そして私の背後のこの町全体についてもおなじである。(p217)」という言葉で閉じられています。

 迷路的なものは、雪がつくる螺旋、渦巻、分岐する波形といった動く唐草模様だったり(p11)、壁紙の模様だったり(p18)、あちこちに出てくる杉綾模様だったり(p50、p71)兵士のおぼろげな記憶のせいで、次から次へと出てきて錯綜する通りの名前だったり(p84)しますが、本当の迷路はどこにあるかと言えば、この文章そのものの中にあるんだと思います。文体が迷路を作りあげていると言えるでしょう。

 認知症の人の頭の中はこんな感じなんでしょうか。泥酔した時に若干似たような頭になるときがありますが。これを翻訳した人はたいへんだったと思います。