:矢野峰人『世紀末英文學史』

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矢野峰人『世紀末英文學史 上』(牧神社 1978年)
    『世紀末英文學史 下』(牧神社 1979年)

                                   
 2冊に及ぶ大著なので敬遠しておりましたが、思い切って読んでみると、意外や講談を聞いているが如き口調の良さに、知らぬ間に酔い痴れておりました。書かれたのがだいたい大正時代なので、いわゆる漢語文脈が主体の美文調の表現がいたるところ出てきます。はじめは新鮮でしたが、読み続けていると、次第にマンネリを感じるようになりました。なるほどこれでと、当時の人が美文を捨てるに至った理由を体感しました。

 美文調の欠点をもう一つあげるとすると、作品の批評をする際に、ややもすると、作品の微細なニュアンスから離れてしまい作者の思い込みの強い単純な世界に陥りがちな気がすることです。自分の口調に酔うということでしょうか、どんどん抽象的な議論が展開されていきます。ワイルドやビアズリイについて書かれた章でとくに感じました。


 これまで矢野峰人の本は、ロオデンバッハの訳と解説が収められた『墳墓』に感銘を受けて以来、『猟書今昔物語』『比較文学』『去年の雪』『英文学夜話』『比較文学―考察と資料』『近代英詩評釋』などを読んできましたが、これらの本の間でも相当内容が重複していた記憶があります。それもだいたい忘れているので、この本の内容ともおそらく重複があったと思われますが、深く考えないことにしておきます。

 この大著の骨組はと言うと、はじめに、世紀末英文学の概説をかなりのヴォリュームで叙したあと(この部分で、ペイタア、ワイルド、ビアズリイが詳述されている)、詩、小説、エッセイの各ジャンル別に、今度は個々の作家を取り上げて、その生涯、作品の特徴、世紀末文学運動における位置づけなどを解説しています。


 自分なりに理解したポイントをざっと簡単に縮約すると、
1)まず世紀末文学の前史として、ロマン派以降、科学的思潮の勃興に逆らう運動としてラファエル前派が出てきて、それがロマン派の特質を橋渡しする形となって、世紀末芸術の運動が興ったこと。

2)その活動の内容は、イエイツが作った詩人倶楽部という組織と『イエロオ・ブック』『サヺイ』という雑誌を拠点とした文芸活動と、やはりイエイツを旗頭とするアイルランドケルト復興運動とに大きく分かれるが、両者には、近代物質文明に反抗し、想像の飛躍、情緒の解放を主張したこと、イギリス的影響よりの脱却を図ろうとしたこと等、共通点が見られること。

3)世紀末文学は、ロマン派的な特質を受け継いでいるが、先人よりもはるかに過激に、ますます異常特殊へと傾いていった。視点として新たに加わったのは、①都会への讃美、②性の暴露の二点であること。

4)芸術至上主義的な一群を指す、いわゆる狭義の世紀末文学に対して、同じ時代に、社会意識の強いもう一つの世紀末文学があり、20世紀に入ると後者が生き残ったこと。

5)その狭義の世紀末文学運動が終焉した理由は、①ひたすら伝統に反抗し、大陸とりわけフランスの影響を無条件に受け入れ、アングロ・サクスン的要素を含まなかったこと、②1900年前後に世紀末文芸運動を支えていた中堅作家のほとんどが相継いで夭折したこと、③南アフリカにおいてボーア戦争が起こり、イギリス国内において帝国主義が覚醒したこと。
という感じでしょうか。


 概説の中の「デカダンの意義」の章で、「さかしま」の梗概が延々と続くのは異様な印象を受けました(この章全体28ページのうち19ページを占める)。しかし、ずっと昔『さかしま』を読んだとき、小説らしき筋もなく、事物の名称が延々と羅列されるので退屈した記憶がありますが、今回は縮められていた分鮮やかな印象を受けました。ただし、前回読んだ時いちばん強く残っていた観葉植物に関する記述が欠落しているのは不思議。

 この時代に、『イエロオ・ブック』『サヺイ』の影響を受けて、文学芸術雑誌が数多く発刊されたのは、イギリス文化史上でも珍しい現象との記述がありましたが、フランスでも世紀末に無数の雑誌が発刊され、群小詩人のサークルが乱立したようです。何か共通するものがあるようです。

 この本を読んで、私の体質にあった作家、ならびに詩人は、ペイタア、ビアズリイ、イエイツ、ダウスン、(フランシス・)トムスン、ハウスマンでした。彼らの作品をじっくりと読みたい気になりました。それとエジャトンの童話集『幻想曲』も。(そんな時間が残されているか疑問ですが)。

 この本では、作家の名前の後に括弧でくくって、必ず生年と没年が出てきますが、それを見ていると、皆早死にしているのに驚きました。いまの私の年齢より年をとって死んだ人がほとんどいない!


 ぐずぐず感想を書くよりも、矢野峰人の口調を実際に感じていただくために、印象深かった文章を引用しておきます。

「羅曼派運動」を以て仮に曙の文学と名づくれば、こは正に落日薄明の文学ともいうべきものにして/p17

されば、人生とは、いわば暗黒なる過去と茫漠たる未来との間に介在する小さき罅隙、まこと電光の一閃に過ぎざるものである。/p32

斯くの如くにして叡智の人は、よく、生に死せずして死に生きる。彼らの生活に於いては、過現未の三界は一つに融けて常に眼前の一瞬に燃えて居る。/p34

芸術に於ける羅曼的特質を形づくるものは美に珍奇が加わったものである。・・・若し好奇の念の大なる過量有る時は、そこに芸術の怪奇性が生ずる。若しも珍奇と美との結合が、困難且複雑なる状況の下に成功する時は、また若しその一致が完全なる時は、その結合一致より生ずるところの美は非常に微妙、非常に魅力あるものとなる。/p114

腐瀾せる意識を通じてこれを味わわんとするのである。好酒家が特に雲丹の塩辛を愛で海鼠を喜ぶの類は即ちこれである。・・・その本質は、中庸適度を去って何物よりも過剰を喜ぶ事にある。/p154

彼(トムスン)が生れながらにして住んだ夢の世界が、阿片の香に曇って、稍奇怪なる然し瑰麗なる姿を呈した事は争われない。従って彼がうたう基督は、清澄なる霊気のなか白光に包まれずして、絢爛さながらに東邦の織物をも偲ばすべき異教的色彩に塗られてわれらの前に現われ来る。・・・トムスンは、太陽が主なる事に想到せざるを得なかった程迄に基督者であったと共に、その前に、更に、壮麗極まり無き太陽神の美に恍惚たらざるを得ざる迄に深刻なる異教徒なのであった。/p389〜392

以上、上巻より。

若し好奇の念の多少を以て読者の二種の型を分つ標準とするならば、好奇の念の乏しき者は筋が予期の如くに発展する事に満足し、然らざる者は筋の意外なる発展に歓喜する。かかる場合、前者の尊重するところは表現上の技巧であり、後者が問題とするのはひたすらに構想取材の新奇にある。従って前者の重んずるものは節度であるが、後者はこれの破れたるところに新生命を見出さんとする。前者を古典的精神の現われとすれば後者は羅曼的精神の現われと言い得る。/p7

→若干単純化しすぎとは思うが。

人若し、頽廃派の瑰麗妖艶なる詩章に酔いたる後、この一巻(ハウスマンの詩)を繙きなば、薫香煙り七彩渦巻く晩春初夏の温室裡より、清風徐に去来する青樹の下、細流に掬するの概あるであろう。/p151

彼等は、民衆の支持によらずんば到底永き生存を保ち得ざるにもかかわらず、民衆を罵倒し冷笑する事のみに走って一も彼等の欲するが如きものを与えなかったのである。ここには純粋に美のために美を追わんとする芸術家が現実に直面する時いつも経験せざるを得ざるディレンマがある。/p164

以上、下巻より。