:柳宗悦の工藝に関する本二冊

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柳宗悦『工藝』(創元社 1941年)
柳宗悦『私の念願』(不二書房 1942年)


 『民藝四十年』に引き続いて、柳宗悦の工藝に関する本二冊を読んでみました。両方とも同じ頃の出版ですが、『工藝』が比較的戦時色の強くなった昭和15年以降のものが中心なのに比べ、『私の念願』はそれより以前の古い論稿や手紙、跋文を集めたものです。

 『工藝』は創元選書の一冊、あまり見かけない本です。工藝についての五篇の論稿が集められていますが、「新體制と工藝美の問題」といった時局風なものもあります。そのなかで、奢侈禁止令に対して賛同するとともに、「物価と共に統制を急がねばならぬのは『質』の分野である(p128)」といった危険な発言まであり、どうかと思ってしまいます。

 『私の念願』は装幀がすばらしく、活字の雰囲気も好ましいので写真をアップして見ました。なかの一篇「雑器の美」は、『民藝四十年』と重複していて二度読むことになりましたが、これは柳がはじめて民藝について書いたもので、柳の他の民藝に関する著作に比べ神がかりのトーンが感じられます。なにか「民藝教」とでもいう新しい宗教の教祖の御筆先のようなところがあります。

 『私の念願』には、柳の友情と情愛に富んだ性格がよく出ている文章が多く収められており、そうした文章には、真摯さ、誠実さが溢れています。なかでも「パーマー老教授」は、柳のハーバード大学講師時代に出会った老教授との交流の思い出を描いて最高の一篇。外にも李朝陶芸を守ろうとした仲間浅川巧への追悼の文章(写真のページ)など心に迫るものがありました。

 一方柳には、「ギリシヤ美術が美しいとは思えない」(『私の念願』p51)とか、「ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスに感心しない」(『私の念願』p33)とか、大胆な発言がところどころありますが、概して自分の感性に絶大な自信を持ち、物事を自分一人で考え抜くタイプの人は、思いもかけないことを強く主張する時があるようです。

 この二冊を通して感じられたことは、柳の思想には、戦前の日本の思想家によくあるパターンが見られることです。それは地域主義と民族主義と大衆志向がつながった思想で、地域主義は沖縄など地方の民芸を大切にする心、民族主義は西洋に対して日本や東洋の強さを主張するところ、大衆志向は民芸のあり方の根本にかかわる反貴族主義というところです。この大衆志向は、言葉を替えれば、社会主義的、反権力的ということでもあり、そこには柳の優等コンプレックスがうかがえるように思えます。

 この貴族主義の問題はいろいろなことを考えさせられます。柳の思想の根底にある天才排撃思想、これはハーバード大学の講義で学生から大喝采を受けたと報告されていますが(『私の念願』p143)、それが農民の素朴な手すさびとしての民芸を称揚し、職人の技術への排撃につながっているようなところがあります。正確には技術の過剰や、技術の中にある技巧を排撃しているのですが、技巧と技術を分けているのがよく理解できません。道徳的な精神論のような気がします。


 他にいくつか気づいた点は、
 ギリシヤやエジプトやローマの美には奴隷制や政治力の支配で歪められた欠陥を感じると主張していますが(『私の念願』p52~54)、そこには柳がいつも主張している「物を直観で見る」姿勢はなく、先入観が入り込んでいるような気がしたこと。
 資本家が企業を通じて、富を一方的に大衆から奪い、大衆には配られない (『私の念願』p101)と主張していますが、企業家が作りだす豊かさや便益というものについてももう少し真摯に考えてほしいこと。

 「美は徳と結ばれずば、真に美となることができない(『工藝』p82)」とありますが、真善美というのは各々が価値の座標軸になるものではなかったか、これに関連して、
「近代芸術の趨勢を見ると、美の方向は異常なものへと好んで進んだ。或は廃頽の美が説かれた。或は悪魔的なものが現わされた。或は怪奇なものが悦ばれた(『工藝』p119)」というのは、『民藝四十年』で書いていた「真の美の表現には、怪異即ちグロテスクの要素が常に内在している・・・怪異の美を生み得る時代のみが、真に力のあった時代だともいえる(p236)」と矛盾していること。

 民俗学を一般科学、民芸学を哲学になぞらえて、民俗学は民芸学に基礎的なものを学ばねばならない(『工藝』p163)と主張していますが、柳は民芸学の原理を考えているのであって、民芸学そのものではないという点。
柳は生活文化を称揚していますが、その割に食文化についてあまり触れていないようなのはなぜなのか、食と器など格好のテーマのような気がするが、など。


 最後に印象に残った文章を少し。

器物に添える装飾は用いたい心を増さしめる為とも云えるのです/p13

機械への驚きは、実は力への驚きなのです/p35

個人への崇拝は伝統を侮蔑し、それを覆すことに意義を認めました・・・かかる事情の許では力の弱い工人達にはいい仕事をする機縁がなくなったのです/p62

以上『工藝』より

活字・・・書物を工芸品として見れば之は最も大切な要素の一つである。昔は木版を用いたので、字体はその時々に更えることが自由であったが、今のように活字になると、・・・勝手に好きな字体を鋳造することができず・・・これに比べると西洋の文字は二十六個であるから、活字の改変が容易である/p44

卓越した書家が存在することは誇りであっても、無数の人が醜い字より書けないと云うことは世紀の恥辱ではないだろうか/p99

天才への讃美は異常なものへの讃美である・・・異常なものが美しい時、それは僅かな数であることを予想する。若し美しいものが夥しくあったら、人はその美しさを讃美しない。美しさが尋常なものに変わるからである。併しかかる尋常さは、美が未だ異常である時よりも、もっと望ましいものではないだろうか。そうして美と数とが結合する時、天才の存在は忘却されるに至るであろう/p102

何もかも分り切った心得た美しさではない。何だかわけの分らぬ泉から生れてくるのだ。そこにはいつも割り切れないものが残ってくるのだ。だから何が生まれてくるか、吾々にも又恐らく作者自身にもよく摑めはしないであろう。この不思議こそ作物の美しさを守っているのだ/p274

以上『私の念願』より