:吉田健一のヨーロッパ論二冊

///
吉田健一『ヨオロッパの世紀末』(新潮社 1971年)
吉田健一『ヨオロッパの人間』(講談社文芸文庫 1994年)


 吉田健一はこれまで敬遠していて、『書架記』と『ロンドンのパブ』ぐらいしか読んでなかったと思います。今回読んでみて、またあらためて文章の分かりにくさに辟易しました。その原因を探してみますと、
①文章が長くてかつ句点がないので、節と節との関係が分かりにくく意味がつかめない。日本語として不自然で、これは著者が若いころ海外にいて欧文の文脈が体に染みついたからか。
②思い込みが激しく理由もなく断定したり、言葉の定義が不明だったりし、それを前提に論を進めるところがある。しかもその断定や定義が一般の常識とは違うことが多いので混乱する。
③フランス語の詩の一節が訳のないまま引用されるなど、一般の読者に分ってもらおうという思いやりの姿勢に欠けている。分かる人、あるいは分かろうと努力する人にだけ分かればいいという態度。これは性格的なところから由来するものだろう。


 意味不明の文章の連なりのなかでかろうじて判読できたのは、この二冊がほぼ同じテーマを扱い、同じことを繰り返し主張しているということで、大ざっぱに言うと次のようなことです。
①18世紀にヨーロッパはその形を完成させ頂点を極めた。民主主義と科学という制度を作り、世界に広め、家や家具の形も整い、人間が礼節のもとで人間らしく生きた。文章というものがかつてなく尊重され、文学においては散文が完成し、モーツァルトの音楽が登場した。
②19世紀になると、フランス革命が一つのきっかけとなって、自ら考えるのではなく観念をひとつの護符として人間がその犠牲にされることになった。制度を人間の上に置くようになり、宗教も科学や民主主義と同様ひとつの観念でしかなくなった。文章も堕落し、ミュッセやラマルチーヌなどのロマン主義が世を覆い、野蛮と卑俗が支配するようになった。
③世紀末になって、ようやく一部の人間が異端者の形で登場し、詩人たちは言葉を精妙に使い、印象派の画家たちも絵を描くことについての眼を見開いた。世紀末というと病的な印象を持つ人が多いが、むしろ健全であり認識する時代であって、十八世紀の正統を取り戻したのである。


 この二冊で、著者が優れていると思われた点は、
①何となく普通の日本人とは素養が違うという印象。我々が西洋史で習った上っ面の知識にはないヨーロッパへの深い理解が根底にある。この時点でマリオ・プラーツの本を読んでいるというのもすごい。
②近代と大衆社会の到来に対する真摯な問いかけがあり、ヨーロッパという観念と格闘する涙ぐましさを感じる。
③個性的で、ひねくれてはいるが、独自の思考がある。
④引用されている詩はいずれもすばらしいし、確かな鑑賞眼を持っているようだ。
⑤混沌とした文章のぬかるみの中からときどきハッとさせられるようなフレーズが登場する。

 
 ⑤については、例えば次のような文章がありました。

神が現れたから古代の光が翳り、翳った光が人間の内面に差して、古代の人間が探索し盡したと考えた人間の世界が奥行きを増した。/p21

もともと醜いものや辛いことが浪漫主義の材料になったのが人間が携る他の種類の精神活動でと同様に何かの意味での快感を求めてのことだったからであり・・・自分の頭に浮かぶことに直接に自分は参加せずに憐れんだり、涙を流したり、恐怖を覚えたりして遊ぶ余地が生じたのであって/p108

一般にヨオロッパというのはゼウスとヨオロッパの伝説に由来する名称と考えられている。併し事実は寧ろ逆で先にヨオロッパの名称があり・・・ヨオロッパという女の伝説になったとなすべきであって・・・ヨオロッパの名称そのものはアツシリア人が自分達がいる所をアス、太陽の国と呼び、その西方がエレブ、或はイレブ、日没の暗闇の国だったのが時代とともに訛ってアジアとヨオロッパになったという見方をするのが当たっているようである。/p230

以上、『ヨオロッパの世紀末』より

フランスの地理上の位置が変る訳がないのであるからフランスは常にヨオロッパの中心部を占めていて中世紀、ルネッサンスを通してのヨオロッパの擾乱はその中心部にあるフランスが弱体であって外敵の侵入と内乱に悩まされていたことがヨオロッパの各地に波及し・・・たことによる。/p71

フランス革命の話)政府軍と民衆の間に戦闘が実際に行われたのは暴徒がパリのテュイルリイ王宮に乱入してこれにスイス人の近衛兵の一聯隊が最後まで抵抗して全滅した時だけである。凡て大量の虐殺というようなことはこの時革命に加わったものの方によって行われている。/p153

以上、『ヨオロッパの人間』より


 内容については、どこか違和感を感じたところもたくさんありました。主なものは、
①18世紀対19世紀の構図に囚われ過ぎていて、杓子定規な印象がある。
②20世紀に生きているのに、19世紀どまりで、今日どうなっているかについてはほとんど書かれていない。
③日本の浮世絵に近代的な性格があるとしたり、トラヤヌス帝治下ロオマやプトレマイオス王朝下アレクサンドリアが近代だとしたり、近代を普遍的な概念で考えているようだが、近代を時代と切り離して考えるのはおかしい。別の言葉に置き換えるべき。
④文明を優雅と同義語と言ったりしているが、文明によって得られた礼節を称揚したいがためのひねくれた定義のように思う。
⑤「科学と民主主義が・・・ヨオロッパのみならずヨオロッパ以外の場所でも一般に行われていたならばヨオロッパだけでなくて世界からヨオロッパというものがなくなっていたと見ることが許される」と書いているが、これもヨオロッパを地理的な存在と切り離して考えるのは、観念に囚われ過ぎている。


 著者の人間性についても下記の点に違和感を覚えました。
①貴族主義的エートスが強い。近代的な合理性、憲法などの制度、営々と築いてきたものへの蔑視。人々の素朴な鑑賞を笑うなど大衆を馬鹿にしたようなところがある。
②人間という曖昧なものへの信仰があり、芸術と社会とを混同して考えている。
③好悪が激しい。好きな人と嫌いな人が明確に分かれていて、極端に攻撃したり持ち上げたりする。好きな人は、ヒューム、デファン夫人、ヴォルテールウォルポール、ギボン、モーツァルトボードレール、嫌いな人は、ベートーヴェン、ミュッセ。
ロマン主義をひとからげにして貶めていて、ロマン派愛好家としては気分が悪い。作家や作品ごとにその良さを認める寛容さが必要だろう。