:佐藤朔の本二冊

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佐藤朔『楕円形の肖像』(人文書院 1977年)
佐藤朔『モダニズム今昔』(小沢書店 1987年)


 佐藤朔の評論・エッセイはこれまで読んだことがありませんでした。しばらくまとめて読んで見ようと思います。今回はその第一弾。

 アットランダムに取り出した二冊です。この二冊の出版の間に、おそらく次に読むことになる『反レクイエム』と『超自然と詩』があります。

 この二冊は、書かれた年代が違っているだけで、フランス文学や絵画についての評論や、フランス文学者など師や先輩の思い出を語るエッセイを収めているところはほぼ同じです。少し違っているところは、『モダニズム今昔』がタイトルどおりモダニズム論を冒頭に集め、コクトー北園克衛西脇順三郎についての関連の評論を配していることでしょう。それと『楕円形の肖像』には読書論や身辺雑記など軽めのエッセイも収めています。

 文章は気取りもなく、平明に書かれていて、慶應義塾大学の塾長まで勤められた著者の実直な人柄が滲み出ています。学生時代に西脇順三郎門下生としてかの有名な『馥郁タル火夫ヨ』の編集をしたことが信じられないぐらいです。詩作もその時を最後に遠ざかっていたようですが、75歳になって再開したことが書かれています。

 ほとんど読んでいないのにこの二冊を読んだだけの勝手な憶測ですが、佐藤朔は本質的には詩の人ではないでしょうか。詩についての文章にはどこかしら熱がこもっていますし、量的にも半分以上占めています。初期はボードレールの翻訳や研究からスタートし、近代詩人論の著作もあることだし。 

 私の関心のあるテーマのせいか、やはりボードレールマラルメの詩についての論考、芭蕉とフランス詩との比較、北園克衛などのモダニズム詩、仏文学の先輩や仲間を語ったエッセイが面白く読めました。

 『馥郁タル火夫ヨ』の序文の凄さ、マラルメの詩の凝縮された美しさ、ボードレールに影響された荷風の初期の文章の魅力をあらためて感じさせられました。

 瀧口修造がミロと意気投合し一緒に詩画集を出したことや、ジャコメッティとビュッフェがカフェで話し合っているのを目撃した話などを読んで、遠い国の別世界にいる人のように思っていた芸術家にかかっていた魔力が解き放たれたかのようでした。

 いろいろと知らないことを教えられることが多く、1980年代フランスに日本ブームがあったこと、小泉信三の書簡がとても人間味溢れていること、佐藤朔の教え子だった遠藤周作が学生時代多彩な才能を持ちまた人の面倒を見るのが好きだったことなどを知ることができました。

 渡辺一夫のパリ時代の下宿のおばさんが「ワタナベ教授は甚だ勤勉な学者であり、よく古本を買い、まるで古本屋のように部屋に本を並べていた」と証言しているのは、どこか親しみを覚えます。

 編集の配慮が足りないと思われたのは、『楕円形の肖像』でラシーヌについての三篇のうち二篇がほぼ重複していること、『モダニズム今昔』でもモダニズムについての八篇は重複部分が多く「モデルニスムという視点」一篇で十分だったのではないかと思います。


 以下、印象に残った文章を引用。

ヴァレリーマラルメのことを語って、一般にはこの詩人の仕事は、晦渋、虚飾、不毛という「三重の悪口」で一蹴されている、と何度か書いている・・・そうしたことばを吐く人自身の怠惰、単純、安直さをいい現わすことばにもなる/p15

ランボーはとくに花そのものを愛し、これを礼讃するということはなく、むしろ美しい花などは軽蔑していた・・・『悪の華』の詩人ボードレールは、案外、花の名を使っていない・・・ボードレールにとって一番特長的な花は、表題の『悪の華』だろう・・・ボードレールも、ランボーも、現実の百合とか薔薇のような現実的な花を軽んじ、それを晶化し、石化し、象徴的な花に変えた上で、愛していたのである/p35

人間は哲学的に不条理であり、現代は状況的に相対的であり、あらゆる点において矛盾撞着をはらんでいると考えて、カミュはそれに抵抗しながら、そのどちらにも加担することもなく、むしろ絶望や不安そのものを生きようとした/p149

「イジチュール」のように三十年間も推敲を重ねながらついに完成しなかった詩や、彫身鏤骨のあまり朦朧となったソネの傑作もある/p190

以上『楕円形の肖像』

西脇順三郎が書いた詩論「プロファヌス」・・・在来の詩の感傷や抒情を排し、また伝統的な表現や修辞を退け、新しい心象の創造を力説した。そのためには想像力によって現実を変形したり、異種の心象を組合せて、思い掛けない驚きや奇異な美を生み出すことを説いた。それらのもたらす驚きや意外性にこそ新しい詩歌や美術の面白さがあり、それによってつまらない人生や現実を受け入れ易くし、生きることを楽しくさせる。/p21

ヴェルレーヌの「物憂さ(ラングール)」であるが、これはボードレールの「憂鬱(スプリーン)」とは違い、また「倦怠(アンニュイ)」ともニュアンスが異なり、またマラルメの「怠惰」と同じではないけれど大摑みにいえばこれらはどれもデカダン詩人の愛用するテーマであった/p62

ボードレールの楽園・・・楽園はパリのことであり、都会を人工的楽園として愛した。・・・日本の詩歌によくある自然の世界や、樹木や森林、草花や昆虫とともに遊ぶ子供がいる場面などは、ボードレールの作品の中にはない。・・・それに比べると農村育ちのランボーの詩には自然が溢れている。/p238

以上『モダニズム今昔』