ポーとボードレールについての二冊

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パトリック・F・クィン松山明生訳『ポオとボードレール』(北星堂書店 1978年)
島田謹二『ポーとボードレール―比較文學史研究』(イヴニング・スター社 1948年)


 たしか中学生の頃にポーとボードレールを読んで、ポーについては「盗まれた手紙」とかの推理的な話はある程度理解できたものの、「アッシャー家の崩壊」は結局何だったか茫漠とした内容でよく分かりませんでしたし、『悪の華』も献辞と「読者に」の口調(堀口訳)が気に入ったものの、本編の内容は今ひとつピンとこなかった(で最後まで読まなかった)ように思います。しかもポーとボードレールがどのような関係があるとかもまったく知りませんでした(と思う)。それでも古本屋で島田謹二の『ポーとボードレール』は買って読まないまま(と思うが、なにせ50年以上も前の話なので不確か)持っていたのは覚えています。大学を出て就職したときに、多分もう読まないと古本屋に売ってしまったのを10年ほど前に買い直しました。今回ようやく読むことができたので、なんとなく嬉しく思っています。

 がこの二冊を比べると、クィンの本の方が読んで得る部分が多かったように思います。クィンは米英仏の研究書を渉猟し一種の研究史とでもいうべきものを展開し、さらに、『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の解釈に独自の視点を導入しています。またボードレールの翻訳をポーの原文と比較しながら論じているところは精緻をきわめています。島田謹二は極東の国という不利な条件のなかで、能う限りの資料に目を通し、ポーの物語の分類など、よく整理され分かりやすく叙述していました。また「唐草怪談集」(ポーの『Tales of the Grotesque and Arabesque』の訳語)とか、「亜剌比亜古書」、「頽唐妖異の趣味」というような古色蒼然とした言い回しに味がありました。


 クィンの本は、中村融という人の翻訳がほぼ同時期に、審美社から『ポーとフランス』という題名で出版されていて、同じ本とは知らず、こちらも買って持っています。『ポオとボードレール』の刊行の方が半年ほど後で、わざわざ「原著作権者との直接契約に基づく」と書いているところからすると、出し抜かれたと知って慌てて注釈をつけたと思われます。

 クィンによると、研究の動機は、フランスでポーが過大評価されている原因を暴こうとしたということですが、研究を進めているうちに、逆に本国がポーを過小評価していることに気づいたと告白しています。いくつかの面白い指摘がありました。まず、ポーとボードレールの関係においては、
ボードレールの詩にはポーの詩の数行がそのまま反映していること。「生きた松明」と「ヘレンに」、「自ラヲ罰スル人」と「幽霊宮殿」の間に相当語句が見られる。

②ポーもボードレールもともに想像力の詩人であり、色や光、音が交錯する共感覚を経験しているが、ボードレール万物照応をはっきりと歌ったのに対し、ポーはそれを理論化することをしなかった。ニューイングランドの超絶論者に反感をもっていたポーの合理精神がそれを許さなかったとする。

ボードレールの「悪」の概念には、ポーの精神とはまったく異なった神学的色彩が濃厚で、ボードレールはポーが自分の詩では取り上げようとしなかった悪や悲痛の現実に、妥協することなく立ち向かっている。

ボードレールはポーの物語を翻訳するにあたって、ポーの玉石ある作品のなかから玉のみを選び出し、かつ作品の配列にも炯眼を発揮していたこと。一巻目の『異常な物語』は一般向けする推理小説に始まり、「たぶらかし」の要素のある数篇、最後に輪廻をテーマとする作品を次の巻につなげるべく配置した。『続・異常な物語』には、幻覚、精神病、超自然などを扱った幻想的な作品を並べた。とくに、「群衆の人」を「ウィリアム・ウィルソン」と「告げ口心臓」との間に置き、ドッペルゲンゲルという三作に共通するテーマを浮き彫りにした。翻訳文については、間違いがあると指摘しつつも、他の翻訳者と比べて、原文に忠実で原文の妙味を再現できているとしている。

 ポー、ボードレール文学史的位置づけについては、
①ポーの文学理論は、直接的にはコールリッジの思想に由来しているが、その背後にはドイツ・ロマン派のシュレーゲルがいる。フランス・ロマン主義は初期には、デカルトの明瞭直截な思想の影響を受けすぎ、皮相的で芝居もどきのゼスチュアに堕していた。ポーはユーゴーが外面からしか描きえなかったグロテスクを内面から描いた。

ボードレールが切り拓いたフランスでのポー讃美はしばらく下火になっていたが、マラルメによるポーの訳詩が世に出ると再燃した。ボードレールにはじまる象徴主義は、18世紀の末葉ドイツに奪われていたヨーロッパにおける文学上の首位を再びフランスに取り返した。象徴主義デカダンと攻撃された時、理論武装に用いたのがポーの文学理論であった。

 ポー作品については、
①ポーの物語は、病的な夢想によるものではなく、明晰さに基づくものであるという研究者の指摘を数多く紹介。暗示や含蓄など、直截的説明を避け、控え目な表現を用いる筆法の技巧が見られる(レジス・メサック)、パスカルの秩序のごとき明晰な理知がある(グールモン)、フランス精神に受入れられたのは論理的だったから(カーティス・ページ)。

②「アーサー・ゴードン・ピムの物語」は、恐怖を無秩序に積み重ねたものではなく、反逆と転覆が起こる挿話的事件を厳密な構成でまとめあげたものである。主人公ピムは単に語り手であり被害者(被虐待嗜好者)にすぎず、事件を左右し、幸運や熟練によって謎を解明していくのは、オーガスタスとダーク・ピーターズという二人の脇役である。

③ポーには二分された人格がある。一方は、ピムやアッシャーなどの陰気でしかも白光を放つような想像力、他方はオーガスタスや探偵デュパンに見られる推理的、分析的な知的能力。「アーサー・ゴードン・ピム」ではこの両者が交じり合い均衡している。ポーの資質のうち基本的で決定的なのは前者のほうである。

 ボードレール訳のポーが現われると、フランス語訳ホフマンの人気はたちまち衰えてしまった、という記述がありました。これはホフマンの翻訳家でもあったネルヴァルにショックを与えたにちがいありません。調べてみると、ボードレール訳ポーが登場し始めたのが1852年、本格的には54年7月からで、ネルヴァルの自殺が1855年1月なので、因果関係があるのかもしれません。
 

 島田謹二は日本での比較文学研究の草分けの一人で、『ポーとボードレール』はその端緒となった研究(だと思う。そんなに深くは知らない)。巻頭にポーの生涯が紹介されていましたが、これまでも解説などで目にしていたはずなのにあまり覚えてなくて、今回その悲惨な境遇に啞然としました。またポーの批評や詩論の形成の過程についても新しく知ることができ、ポーは時評家としての習練をかなり積んだので、それを創作に活かせたということが分かりました。

①ポーの詩観の系統は、コールリッジ、シェリー等のイギリス・ロマン主義に辿ることができ、シュレーゲルが北欧人の憂愁として讃えたロマンティック・ノスタルジアを一歩進め、憂愁の極北にある「死」と「美」が結合した「美女の死」を最適の詩題と考えた。それは、グレー、ヤング以来の墓畔文学の系統を引きながら、説教や感傷を排除する比類なき彫琢の作品となった。詩の構成についても、作品の統一を念頭に置き、クライマックスを重視した。

②物語においても、ポーは作品全体の効果に関係のない語は一語も書いてはいけないとし、それまでのラドクリフやゴドウィンらの「狂乱小説」が陥っていた複雑でメロドラマ風の冗長さを排し、古典芸術風の集中と選択による極度に圧縮した表現に精錬した。その後継者に、ボードレールマラルメヴィリエ・ド・リラダンがいる。

③ポーを知る前すでにボードレールには独自の美学の輪郭ができていたが、それがポーと酷似していた。両者の育った文学的環境が共通していたからで、ロマン主義1840年代のエマソンスウェーデンボルグの神秘思想の薫陶を受け、ラドクリフやホフマンを共通の愛読書としていた。ボードレールがポーから受けた影響としては、芸術至上的な唯美主義があるが、これもゴーティエの芸術思想からすでに受けていたのを補填する形での影響である。

④また『悪の華』におけるポーの詞句からの影響があり、ポー詩集を読んだ後、ボードレールは頭韻と類音を頻繁に用いるようになった。また同一語彙・句の繰り返し(ルフラン)や類似構造の並行体(パラレリスム)はポーから学んだのではないだろうか。

ボードレールのポー論には、ポーの中に自らの姿を見ようとするあまりの歪曲がある。ボードレールは、ポーを社会に反抗する窮乏の天才で恵まれぬ浪漫家と見て、ポーの不幸をもたらしたのは物質的進歩を旨とするアメリカの文明だと非難しているが、これは当時のフランス人一般のアメリカ観を反映したものである。ポーには科学的興味があり、物質的進歩を否定するものではなかった。