:田辺貞之助『女木川界隈』

 先日ご紹介した『フランス短編名作集』に感銘を受けたので、しばらく書棚に眠っていた田辺貞之助の随筆を引っ張り出して読んでみました。

 田辺貞之助はフランス小説の翻訳以外に、フランス語文法書や語学書、『夢想の詩学』などフランス文学論、それにフランスの伝説や小話、さらに飛躍して世界の小話や江戸川柳についての紹介まで幅広い分野で活躍されていますが、この本はそのいずれとも違って、戦前の古きよき東京の下町風景を活写した小説的な味わいを持った随筆や、辰野隆風の世相感想随筆が収められています。辰野隆も推薦文を寄せています。


 冒頭の「蓮田の四季」では、子ども時代に近所の蓮田で力いっぱい遊びまわった回想が綴られていますが、子どもたちの天真爛漫な振る舞いが生き生きと描かれていて、昔の子どもたちが今の子どもたちにはない幸せな別世界を持っていたことがよく分かります。


 「お神楽と万歳」「随想三夜」では戦前の東京の風俗、また「つなみ」では、台風の被害で家がへどろまみれになる有様、「新巻の鮭」では、関東大震災の後の朝鮮人虐殺の様子が生々しく語られています。描写がなかなか真に迫って、なまじの小説よりはるかに優れていると思いました。


 戦前の人間が、現代のちんまりした人間には見られない破滅的で大柄な身のこなしをしていたことや、町中がチーハーばくちで揺り動かされる今では考えられない社会のあり方には驚かされました。


 田辺貞之助は迷信深い家庭に育ち本人も大変迷信深かったようで、「お稲荷さま」では占い師に見てもらうシーンが何度か出てきますし、本人も「迷信」という随筆で自ら認めています。幻想小説の翻訳に手を染めているのもそんなところからかもしれません。小品の中には「海坊主」という怪談や「心中」という怪奇味のある話もあり、なかでも「呪いの歯」はもっとも印象深く、醜女で門歯と門歯の間に小さな歯(魔歯)を持つ婆さんが物語の中心ですが、最後にゴーチェの「魔視」の話題をもってきて落ちとするなど、田辺貞之助ならではの味わいの作品になっています。


 後半には、世間のあくせくした風潮に対して、「一生懸命が嫌いの弁」などで、さかんに気楽で余裕のある生き方を推奨していて、私のような怠け者はつい嬉しくなってしまいました。
最後の「ユーモワ礼讃」では、日本文化の向上のために、夜に日をついで勉強しユーモアを解するゆとりのない教授仲間に対して、次のように言い放ちます。

フランスのモラリストジュベールは「心のなかに空地をもて」とおしえましたが、その空地に草をはやし、花を咲かせて、蝶を舞わせ、小鳥をさえずらせるのも、楽しいことではないでしょうか。/p281