クレマン・ロセ『現実とその分身』


クレマン・ロセ金井裕訳『現実とその分身―錯覚にかんする試論』(法政大学出版局 1989年)


 今回は、分身についての哲学的考察。途中まで何とかついて行きましたが、後半は皆目分からなくなってしまいました。分身そのものについての記述は少ないというのが印象です。訳者が「あとがき」で、「このような〈分身〉概念が、ドッペルゲンガー現象の解明にどれだけ有効かどうか・・・この点については断定的なことは何もいえない」(p168)と書いていましたが、それなら最初から訳すなと言いたい。屁理屈をこねまわしたような複雑な文章をよく訳されているのは感心しますが。

 大きくは「緒言」とあと3部に分かれていますが、私の理解の範囲で言えば、
緒言では、愛する女性の浮気現場を押さえているのに、丸め込まれて現実を正確に認識できなくなった男や(クルトリーヌの『ブブローシュ』)、女性に月々の手当てを送っておきながら、恋するあまり、女を囲うという行為にはならないと思う男(プルーストスワンの恋』)を例に挙げながら、眼前に起こっていることを正しく理解できず、ひとつの現実を二つの意味作用に分解してしまう錯覚の作用について語っています。この二つに分解するというところに分身との関連を見ているようです。


 Ⅰ章では、神託を避けようとして結局その神託が実現してしまう4つの物語―①息子がライオンの爪にかかって死ぬという夢を見た老人が、息子を部屋に閉じ込めたが、息子が壁のライオンの絵を叩いたとき棘が刺さってそれが原因で死んでしまうというイソップ「息子とライオンの絵」、②父を殺し母を妻とするという神託を避けようと放浪の旅に出るが結局その通りとなってしまうオイディプス伝説、③息子に踏みにじられるという星占いに恐れをなした王が息子を塔に閉じ込めるが、息子が人民の反乱によって救い出され父を屈服させるカルデロン『人生は夢』のジギスモンドの物語、④死神に睨まれサマルカンドへ逃げたバクダットの大臣だが、実は死神はサマルカンドで彼を待っていたというアラビアのコント―を例に挙げながら、危険を回避する行為そのものが神託を導くことになる皮肉と意外性、さらには運命の確実性を指摘し、その意外性の元凶は事件そのものにはなく、避けようと期待した側にあるとし、当人のありとあらゆる想像力の欠如=錯覚が原因であるとしています。

 Ⅰ章では二つの面白い議論が目に留まりました。ひとつはベルクソンの記憶と認識に関する論説で、知覚するときに、知覚を二重化し、一度は現在のかたちで、もう一度は記憶のかたちで、いわば二度生きているかのような印象を持つようになる錯覚を分析しているのが紹介されていました。これはデジャ・ヴュの構造を的確に言い当てていると思います。もうひとつは、運命の唯一性についてで、別のありうべき実在の形を否定することこそ存在するあらゆるものの運命であるとし、明確にはせずに暗示するという神託のあり方に注意を向けさせていますが、この考えは並行世界の可能性の議論につながるものと思います。


 Ⅱ章では、Ⅰ章で論じた神託に見られる現実の二重化が、哲学史における形而上学的言説の構造をなしているとして、プラトンの諸説(洞窟の神話、パンピュリアル人エルの神話、想起説)や、ヘーゲルの哲学を挙げています。そしてその対極に、形而上学的二重化が結局は現在を軽視し現在から富を奪い取るのとは逆に、現在を充実させるものとして、ストア学派や、ニーチェ永遠回帰を称揚し、最後に「過ぎ去ってゆく現在を愛したまえ、未来と過去とはおまけに与えられるから」(p95)という言葉で締めくくっています。

 Ⅱ章で展開されている「気取り」についての考察は面白く、フランス的感性の秘密に触れたように思いました。フランス的気取りとは何よりも「複雑さに対する嗜好」すなわち「二重化の欲求」であり、言葉を裏返せば「単純なのものに対する嫌悪」すなわち「唯一性への恐怖」ということになります。著者自身がそれを体現しているように思います。この気取りが、フランス人のもう一方の特徴であるオリジナリティへの固執と融合して、フランス人独特の気質が生まれているように思います。


 Ⅲ章になって初めて、分身そのものが取り上げられます。あらゆる存在は、自分であって他者ではないという個物性、唯一性を持っていると改めて強調し、さらに他者の唯一性は私からよく見ることができるが、自分の唯一性は自分では見ることができないという特徴を指摘したうえで、もし同じ人が二人同時に存在するとすれば、一方は他方の正確な分身ということになり、これは人格分裂としてこれまで心理学上の問題となると同時に、文学作品の中で多数の分身テーマ作品を生み出してきたと、例を挙げながら説明しています。

 Ⅲ章で面白かったのは、アリストテレスデカルトがともに明証性と呼んでいる、ものごとの直接性に関する説で、推論の助けも媒介もなしに直接目に見えるものそのものに到達すれば、あらゆる合理的思考は推論の行使を中断しなければならなくなり、すなわち哲学は中断されることとなる。「モノガアラワレレバ、論証ハ終ル、のである」(p142)という一節。


 この本の中でも、いくつか分身譚の例が挙げられていました。そっくりの人物が重要な役割をするというプラウトゥスの『アンフィトルオ』、『二人のメナエクムス』や、分身のマリオネットが登場するストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』、マルティーネス・シェラの梗概にもとづくマヌエル・デ・ファリャの『恋は魔術師』、ホフマンスタールの台本にもとづくリヒャルト・シュトラウスの『影のない女』。さらに、最後に分身像によって苛まれ死に至らしめられるという映画、カヴァルカンティの『真夜中』が紹介されていました。ネットで調べてみると、日本未公開で、『夢の中の恐怖(Dead of Night)』というイギリスの恐怖映画らしい。