オットー・ランク『分身 ドッペルゲンガー』


オットー・ランク有内嘉宏訳『分身 ドッペルゲンガー』(人文書院 1988年)


 これからしばらく分身や影についての本を読みます。分身テーマについては、学生時代に、改造社の世界大衆文學全集で、シヤミツソオの『影を賣る男の話』(淺野玄府訳)やエエウエルスの『プラアグの大學生』(秦豊吉訳)を読んで以来関心があり、目に留まるたびに買い求めておりました。まずは精神分析学者の書いたこの本から。新刊で出た当時に読んでいて今回は再読。

 精神分析学の割には臨床的な話題はあまりなく、文学作品や民間信仰に現われた分身を素材にして書かれており、どちらかというと文芸評論的な味わいがありました。全体は5章に分かれ、Ⅰ章は序論、Ⅱ章は文学作品について、Ⅲ章は作家個人について、Ⅳ章は民間信仰について、Ⅴ章は精神分析学的解説、といった構成になっています。

 鏡の中の自分の姿が独立して本人の行動を妨害するとともに、本人は鏡に姿が映らなくなったり(鏡像)、同様に影が本人から離れて次第に主人のように振舞ったり(影)、生まれつきよく似た二人が運命的に妨害しあったり、同姓同名の人物に行く先々で妨害されたり(類似した他人)、自らをかたどった蝋人形と敵対したり(人形)、自分はいつまでも若さと美貌を保つが、肖像画は本人の悪行とともに醜く変化していったり(肖像画)、そのヴァリエーションとして、鏡に歪められた自分の姿が映ったり(歪み鏡)、同一人物が昼と夜とまったく別の二つの顔を持ったり(二重人格)、同一人物が記憶喪失によって二つの異なる生活を送る(記憶喪失)など、分身の現われ方のさまざまなパターンが網羅されています。

 また、ドイツを中心にではありますが、文学作品をかなり広く渉猟されていて、知らない作品も数多く紹介されているのが、貴重です。次のような作品が登場しました。(訳は本に出ているとおりにしています)。
エーヴェルス『プラハの学生』『ベルリンの不思議な少女』、ミュッセ「12月の夜」、ホフマン「なくした鏡像の物語」(『幻想作品集』)『悪魔の霊液』「分身」『牡猫ムルの人生観』『ブラムビルラ王女』「石の心臓」「嫁選び」「砂男」、シャミッソー『ペーター・シュレーミール』「幻影」、アンデルセン「影」、レーナウ「アンナ」、ゲーテ「メールヒェン」、「ゼーゼンハイムでの挿話」(『詩と真実』)、メーリケ「影」、デーメル「影」「仮面」、スティーヴンソン『ジキール博士とハイド氏』、J・パウルジーベンケース』『巨人』『見えない桟敷(ロッジ)』、ライムント『アルプス王と人間ぎらい』、ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』、ハイネ『フローレンス夜話』『アッタ・トロル』『ドイツ、ある冬物語』、モーパッサン「オルラ」「あいつ」、ポリツキー「ある夜」「幽霊の国で」(『幽霊物語集』)、ポー「ウィリアム・ウィルスン」、ドストエフスキー『分身』、デュ・モーリアー『中折れ帽(トウリルビ)』、ヒュー・コンウェー『呼び戻された(コールド・バック)』、ディック・メ『アラール事件』、パウル・リンダウ『もう一人の男』、ヒルシュフェルト『第二の人生』、リラダン「心眼」、ミッキェーヴィチ『慰霊祭』。さらに訳者がデュレンマット『分身』、エヴゲーニー・シュヴァルツ『影』、芥川龍之介「二つの手紙」、坂井信夫『分身』を追加しています。

 そうした分身譚に共通する特徴として、①主人公の瓜二つの似姿が問題となること、②強い虚栄心が原因で、女性関係によって破局が引き起こされること、③影や鏡像が、昔の主人を自分の影のように扱いはじめ、追跡・迫害を行なうこと、④その過程が迫害妄想やパラノイア的妄想として描かれること、⑤最後に主人公は、無気味な相手から力ずくで自由になろうとするが、分身の命が本人自身の命と密接に結ばれているため本人が死んでしまうこと、などとしています。

 Ⅲ章で、精神分析学者らしく、それらの作家の精神的な病跡を明らかにし、多くの作家が精神を病んでいることを示しています。47歳で神経病で亡くなったというホフマン、幼い頃から強烈な自我の感覚に打たれ妄想を抱き続けたというJ・パウル鬱病アルコール中毒の末に振顫譫妄で死んだポー、女狂いの末に進行性麻痺症を発症して43歳でこの世を去ったモーパッサン、その他レーナウ、ハイネ、ミュッセ、ドストエフスキー、ライムントと、書き写してるだけでも陰陰滅滅となる話ばかり。

 Ⅳ章は、そうした物語の古層ともいうべき民間信仰の中に、分身に関連したものがあることを、民俗学者の発表資料をもとに紹介しています。壁に影を投げかけない人、あるいは影に頭がない者は、一年以内に必ず死ぬとされるとか(ドイツ・オーストリア)、自分の影を踏むと死ぬとか(ドイツ)、王の影を踏む原住民はすべて死刑に処せられるとか(ソロモン諸島)、影が死者とかその墓や柩に落ちないようにするために、埋葬式を夜中に行なったりとか(?)、遺体がまだ家にあるうちに自分の姿を鏡に映して見る者は死ぬとか(ユーゴ南西部)、鏡に自分の顔の他に別の顔を見た者はまもなく死ぬとか(?)、そうした鏡の魔力から身を守るために、新調の鏡はまず猫に眺めさせたりする地方もあるとのこと。

 総じて、どの言い伝えにおいても、影・鏡像を人間の魂と同義に捉えていることが分かるが、それは霊魂観念の当初の形が、人間から引き離せられない完全な似姿である影から出発しているからであるとし、魂は影だから魂自身は影を持たないというペルシアの信仰や、精霊・小妖精・守護霊・幽霊・魔法使いたちも、もともと影すなわち魂であるから影がないという話が生じてくるとしています。


 最後に、シャミッソーの「ペーター・シュレーミール物語」を日本に置き換えて翻訳(翻案?)した珍しい本を所持しているので、書影を残しておきます。