ANDRÉ DHÔTEL『Les voyages fantastiques de JULIEN GRAINEBIS』(アンドレ・ドーテル『ジュリアン・グレヌビスの不思議な旅』)

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ANDRÉ DHÔTEL『Les voyages fantastiques de JULIEN GRAINEBIS』(PIERRE HORAY 1958年)

 アンドレ・ドーテルは、大学時代に三笠書房から出ていた『遥かなる旅路(LE PAYS OÛ L’ON N’ARRIVE JAMAIS)』を翻訳で読み好きになった作家です。それで15年ほど前に、南仏旅行の際に買った『Ce jour-là(その日)』という小説を読みましたが、夢想的な部分の少ない世俗的小説で、かつ読解力の未熟さからかよく分からないこともあり、面白くありませんでした。

 今回読んだこの物語は、『遥かなる旅路』を思い出させる(と言ってもその内容はすっかり忘れている)佳作で、不思議な力を持った少年が、戦争で離散した家族を求めて数々の冒険を繰り広げる話。4章からなり、1章ずつが独立して読める物語となっています。戦後10年ほどしての作品で、まだ戦争の傷痕の記憶が痛々しく残っている印象を受けました。

 全体に共通するのは身体にまつわる幻想がモチーフであること。最初の話では、主人公の身体が木のなかに入りこみ、足は大地に根を張り手は枝となって広がるというふうに木と同一化します。二話目では、ちょっとしたエピソードにしか過ぎませんが、主人公が鳥や猫に変身したと思わせる場面がありました。三話目では、主人公の影が本人から離れて動きまわるのが主軸となっており、最後の話では、村全体の住人たちの姿が突然見えなくなります。

 順番に印象に残ったところをご紹介しますと(ネタバレ注意)、
第一話では、何といっても木に凭れかかっているうちに、木と同一化する場面がありありと実感できて新鮮。木のなかにとどまったまま姉を探す旅に出るが、それは想像力、千里眼の旅の形をとる。まわりの樹々の話声が聞こえ、そして、姉の南洋の旅の光景やいまベルモン村に帰っている姿を幻視する。「木に閉じ込められるのと人間の身体に閉じ込められるのとどんな違いがあるのか?」(p35)という問いかけは面白い。

第二話は、叔母が留守の間にドイツ軍が攻めて来て、女中が機転を利かして財宝を埋めその場所を手紙に記した後死んだが、手紙を隠したと思われる気圧計が敵兵に持ち去られたので、それを探そうと、叔母と一緒に旅に出る話。不幸な人々を助けることによって失われた財宝が見つかるという信念のもとに、次々と人を助けながら旅をするが、艱難辛苦の末に、メーテルランクの『青い鳥』のような結末が。「僕たちが見て来たものはすべてある道を示してるんだ」(p92)という求道的で肯定的な考え方がすばらしい。彷徨小説はまた求道小説でもあったのだ。また途中紛れ込んだ村の二人の地主がやり取りする会話がとぼけていて味がある。

第三話は、兄を探す過程で、主人公の影が本人から離れていく。シャミッソーの『影を失った男』やエーヴェルスの『プラーグの大学生』に似ているが、この場合は、悪魔との契約で悲劇に陥るファウスト的な話ではなく、壁に映った影が本人の意思を代弁して活躍する話で、一種の超能力譚。相手の影に滑り込んで隠れたり相手の影を消したりして相手を操るという力を発揮するのが面白い。

第四話は、母を探す話。村人たちに魔法がかかり全員見えなくなるが、見えなかった姿が見え始める場面は、吸血鬼が粉々になって崩壊するのと逆パターンで新鮮な驚きがある。「ゆっくりと男が立ちあがる様子が見えて来た…まるで花がすくすく伸びて咲くように、杖をついた背の高い髭づらの男の姿が現われた」(p190)。

 結末部分で、「これはまだジュリアン・グレヌビスの冒険のほんの始まりに過ぎなかった」という言葉がありましたが、続編があるに違いありません。


 話は脱線しますが、『Ce jour-là』をニースの新刊書店で買ったとき、こちらは何も言わないのに、店長らしき人がこの本(あるいは作家?)はとても面白いと喋りかけてきたのが印象に残っています。別のときパリのブラッサンス広場の古本市でも、Jean Louis Bouquet『Mondes noirs』を買おうとしたら、これは凄い小説だというようなことを言われたことを思い出します。日本の本屋でそんなことを言われた試しがありませんが、向うの本屋さんには伝道師の心を持った人が居るみたいです。