NOËL DEVAULX『LA DAME DE MURCIE』(ノエル・ドゥヴォー『ムルシアの貴婦人』)

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NOËL DEVAULX『LA DAME DE MURCIE』(GALLIMARD 1987年)


 私の愛でるフランス幻想小説の一群のなかに、また新たな作家がつけ加わりました。前回、マルセル・ブリヨンの記事でも触れた『現代フランス幻想小説』というアンソロジーで、表題作「ムルシアの貴婦人」(滝田文彦訳)を読んではいましたが、他に翻訳もなくそれほど意識はしておりませんでした。今回、「La Dame de Murcie」を原文で再読するとともに、他の3篇を読み、相当な巧手であることを確認しました。

 ブリヨンに較べると、文章は少し難しく感じました。丁寧に書かれているというか、簡単に先を予想させない文章の運びと言えばいいのか。いつもなら大体の予想で読み進めることができますが、ドゥヴォーの文章は正確に文章を読み取らなければ先に進めないほど、構築されている感じがあります。私のフランス語読解力のせいか、もとの文章がそうなのかはよく分かりませんが、書かれている文章が全体の物語のなかでどう位置付けられているのか、不鮮明な部分がありました。「La Dame de Murcie」で意味が分かりにくいところを、翻訳で確かめてみると、誤解している部分が多々ありました。私がいかにいい加減な読み方をしているか、一向に上達の気配が見られないのは嘆かわしいことです。

 珍しいことですが、この本は落丁本で、残念なことに、「Album de famille(家族のアルバム)」という短篇が脱落していて、最後の1ページ半しか印刷されていませんでした。p63の次空白の頁がありその次はp81となっています。フランスのしかも古本なので、文句の言いようもありません。そのわずか1ページ半を読むと、何か昔住んでいた館に入ったときの情景が描かれていて、とても気になります。これもヌーヴォー・ロマンの一種の仕掛けかとまで思われます。

 ドゥヴォーの書法の特徴の一つは、幻想怪奇譚の要諦とも言えますが、怪をあまりだらだらと見せないという点にあります。不思議な怪しい美が登場するのは確かですが、それは一瞬垣間見えるだけで、その一瞬を盛り上げるために前段で話を盛り上げていく工夫があり、また一瞬の出来事でよく分からないままに謎めいた余韻を残す結末部を作っています。正体が分からぬまま謎だけが残るという仕掛けです。具体的な例は各篇の紹介を見ていただくことにしますが、これはまさしく、中心を欠如させて、それを類推させることによって、一種の美の境地を作る象徴主義の書法ではないでしょうか。

 怪奇とかグロテスクの印象は、一瞬の出来事においてよりいっそう強烈に感じるものですが、それは、ある一定の秩序で営まれているわれわれの生や美意識に突然亀裂が生じ、何か得体の知れないもの、秩序を乱すものが出現するその瞬間に、そのずれた感覚、違和感、居心地の悪さがグロテスクな印象をもたらすということで、秩序が揺らぐのを元に戻そうとするせめぎあいの中に不思議な感覚が生じるわけでしょう。

 これらの作品に共通するもうひとつの特徴は、いずれも男性の目線から、性的な妄想に関連した美に誘惑される姿を描いていることです。「La Dame de Murcie」では、「スフィンクスとラミアが、ムルシアの貴婦人のなかに固く結合していた・・・野獣とも猛禽とも見分けのつかない腰の盛り上がりは、讃嘆すべきものだった」(p14)とか、「Euphémisme(聖ウフェミ崇拝)」では、「腕はむっちりしていて腰も豊か・・・虚ろな眼差しは何か眩暈を起こさせた」(p30)とか、「L’aubade à la folle(気違い女へのセレナード)」では、「半開きの窓から手が出て来て、それがまた薔薇色で細やかで・・・われわれは固唾を飲んだ。鎧戸は計算されたようにゆっくりと開いた。ようやく、ナイトキャップから豊かな髪を垂らした驚くように美しい顔が現われた」(p62)とか、「Cour des miracles(奇跡の庭)」では、「そのとき、女性が私がしつこく跡をつけてくるを楽しんでると気づいた。見失いかけると、薄闇から出てきてスカートをひらつかせるのだ」(p90)といった文章が目に留まりました(訳はいい加減)。

 蛇足ですが、La Dame de MurcieはLa belle dame sans merci(慈悲なき美女)をかけたものなのでしょうか。

 以下、各篇の概要です。                                   
◎La Dame de Murcie
旅に出る部屋の持ち主から、開けるなと鍵を渡された二重に閉じられた秘密の部屋。主人公は、そこから抜け出てきたスフィンクスともラミアとも見える美しい幻獣を見るが、幻獣は見られていることに気づくとさっと消えてしまう。部屋主から帰るとの知らせを受けて、主人公の狂気のバネがはじけた。幻獣と何をしたかは覚えていないがその叫び声だけは覚えている。帰って来た部屋主は、夜穴を掘り、人間ぐらいの大きさの袋を穴に入れるが、そのとき袋の隙間から白い身体が見えていた。手掛かりはこの三つしかなく、幻獣の正体は何なのか、主人公は幻獣に何をしたのか、白い身体は幻獣なのか、なぜ部屋主は幻獣を埋めたのか、謎を生み出し謎を残しながら物語を進行させているところが、なかなかの手腕を感じさせる。

〇Euphémisme
彫像おたくの税務署員が、仕事の傍ら、各地に残る礼拝堂を行脚しているうちに、聖像をコレクションしている老婦人と出会い、家を訪ねたところ、そこで古色を帯びた聖ウフェミ像と出会う。家に持ち帰って、ある夜、豪華な衣装を纏わせ、仲間を集めて乱痴気パーティを開くと、翌朝、聖像は裸になっていた…。メリメのヴィーナス像を思わせる一篇。聖像を主人公がもらい受けて去る場面で老婦人がにんまりとしたのはなぜか、聖像を玄関に置いたとき腕が少し開いているように見えたのはなぜか、旅から帰るたびに聖像が変化しているように見えたのはなぜか、なぜ聖像が裸になっていたのか。Euphémismeを辞書で引くと「婉曲語法」とあるように、何事も明示はしないが、婉曲的に石像に命が通っていたことを暗示している。

◎L’aubade à la folle
町の新旧の姿についての外国人向けテキストと、若き日の愚行話が交互に語られているが、愚行話の中の一つの出来事が中心となっている。それは、年中垢だらけのコートを纏っている気の狂った老女の家の前で、笛の名手とともに、仲間とふざけてセレナードを捧げていたとき、窓から一瞬現われたのが若く美しい女性だったので、みんな家の中に殺到したが老女の他には誰も居なかったという一件だ。今や老人となった語り手は、地面に耳を当て奥に流れている水の音を聞こうとして、みんなから気違いと避けられているが、これは外国人向けテキストの「今は涸れて砂で覆われている河の底には力強い水が流れている」という記述、ならびに老女の窓から美女が現われたというイメージと呼応している。

◎Cour des miracles
町は道具係や役者たちが作りあげる舞台だと見なしている主人公が、突然の嵐で雨宿りすると、同じくアーケードの端で雨宿りをしている若い女性に気づいた。雨がやみ、女性は歩き始めた。後をつけていったが、その女はびっこを引いている。町はずれまでついて行ったころには日が暮れてきた。彼女を見失って、修道院の回廊に座っていると、また足を引きずる音が聞こえてきた。が女の足音とは別の間合いがある。月影に照らされた修道服に身を包み大きな頭巾をかぶったその人物は何者か。歩く途上にも、グロテスク文様で飾られた壁龕の怪異な像、奇怪な石組や床張りなどが現われ、夜のなかで妄想が跋扈する。