谷川健一『常世論』

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谷川健一常世論―日本人の魂のゆくえ』(講談社学術文庫 1989年)


 タイム・トラベルの次は、この世の外の話。谷川健一の著書は昔からよく見かけますが、ほとんど読んだことがなく、『神に追われて』という小説的雰囲気の濃厚なノンフィクションと(2014年10月10日記事参照)、『海の夫人』冒頭の短歌62首ぐらいしかありません。この本は、民俗学の細かい考証が至る所にあって、読みにくくよく理解できない部分もありましたが、強く印象に残ったのは、序章の常世の波のイメージです。

 序章では、『日本書紀』の「海(わた)の底におのずからに可怜(うまし)小汀(おばま)あり」という言葉を引用し、他界にもきよらかな波打ぎわの平地があると説明したあと、『丹後風土記』から、浦島の子が海神の娘に贈ったとされる「子らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 浪の音聞ゆ」という歌を引用しています。以前読んだ長谷川正海『日本庭園雑考』の常世国の波が現世の伊勢の海に打ち寄せるという記述を思い出しましたが、そこでは、あの世を地下とか天上ではなく平面的延長として考えている日本の特徴を指摘していました。何かは分かりませんが、「常世の浜の 浪の音聞ゆ」というのは心にしみるフレーズです。

 その後、著者は次のように論を展開しているように私には見えました。
敦賀などで産屋がなぎさに建てられたのは、昔の人にとっては、出産は新生ではなく再生であり、生まれて間もなくはまだこの世に完全に戻ってきていないと見て、あの世とこの世がつながっているなぎさで育てた。一方、淡路などで、古墳が海浜あるいは岬に集中しているのは、そこがもと風葬の地であったことを示している。産屋と喪屋という二つを見ても生と死の儀礼には共通点がある。

②船に乗ってあの世を目指す補陀落渡海の伝統は、那智勝浦以外にも、高知県鳥取県、大阪の四天王寺の海、熊本県など日本の各地に見られる。舟を棺のように仕立てることや、那智補陀落寺の僧が死ぬと、まだ生きているかのように担いで舟に乗せ、近くの島に水葬するという風習もあったことから、補陀落渡海が一種の水葬であったことが分かる。

③黄泉は、奄美の言葉で醜さを意味する「よも」から来ているという説があり、記紀では、死者を埋葬するまで棺におさめ喪屋に置く殯(もがり)を黄泉国としていることから、死穢(しえ)の観念や死霊に対する恐怖が、黄泉国という他界の観念を形成したと見ることができる。

④日本では、当初、他界は生者の生活圏からそれほど離れたところではなかった。常世も最初は死者の行く世界であったが、後では蓬莱島とか仙郷の島とかに変化していった。浦島伝説はすでに祖霊の行く死者の国としての常世の感覚を失っている。一方、沖縄の他界概念であるニライカナイには、祖霊神の住む島から現世を眺める視座がまだ残っている。

⑤イザナキの命が黄泉の国に妻を訪ねたり、スサノオの命が妣(はは)の国に行きたいと泣きながら根の国に降りていくなど、日本の神話は国生みの直後から常世と現世との間の意識の分裂を伝えている。常世の観念には、現世から他界を望み、その分裂を痛ましく思い、合一への憧れに身を任せる感情がこめられている。

⑥すなわち、失われた楽園への嘆きが日本神話の神代の巻を貫くライトモチーフである。この点では「創世記」に似ているが、ヘブライ神話が父なる神を求めているのに対して、妣(はは)の国への身を焦がす思慕が記紀を貫いているところに特色がある。常世は一種のエディプス・コンプレックスとも言え、日本人の意識のなかに、繰り返し、ひそかな憧憬と哀愁の旋律を奏でているのである。

 他に、古代の日本には、春分秋分に、三輪山の頂上から太陽が出て二上山の頂上に太陽が沈むという東西の軸線の意識がすでにあり、その軸線を延長したものが、伊勢と淡路の二つの場所で、淡路は当初は国生みの中心であったが、5世紀の後半から次第に伊勢の方に移って行った、ということが指摘されていました。

 谷川健一の出発点が、柳田国男折口信夫の二人の足跡を追いかけるところにあったことが、「まえがき」や「あとがき」に書かれていました。古来からの日本の学問は机上の探究に終始したために、他界概念を正面から取り上げることがなかったが、二人の先達が他界を生涯にわたって研究テーマとし、とくに晩年になっていっそう関心を深めたことを語り、自分がその後を継ぐという決意が表明されていました。


 『海の夫人』のなかの短歌に、この本のテーマに通じるものが多数見つかりましたので、いくつか引用しておきます。
海底の竜の都に卵なす無目籠(まなしかたま)は降りてゆきたり

海若(わだつみ)の娘が蒔きし向日葵のいろこの宮に今咲きほこる

現し世の夜の境を越えむとしともしびの油つぎ足しにけり

みどりなす潮は洗ひぬ産砂(うぶすな)の神にまかせて汝が捨てし児を

わが心海に葬らむ日の果に水牛の瞳(め)の悲しく見ゆる

沈みゆく船の帆柱にとまる鳥不幸を吾と頒けあひにけり

わが喪船潮のくだり海くだり日の崖(きりぎし)に幻は落つ