:怪物・幻獣評論アンソロジー二冊

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若桑みどりほか『怪物―イメージの解読』(河出書房新社 1991年)
安達史人ほか『幻獣の原型と変容』(北宋社 1986年)


 前者は5名、後者は10名の著者による論文集。両書の雰囲気が対照的で、前者は緻密な文献渉猟にもとづいた学術論文の体裁であるのに対して、後者は根拠がはっきり示されないまま思いのたけを綴るといった感じの論文が多く見られました。一般的には、学術論文は細部の考証に終始してつまらないものが多いですが、『怪物』の論文は、構想が大きく視野が広くかつ分かりやすくて、楽しく読めました。『幻獣』のほうは、良く言えば想像力と創造力に溢れているとも言え、それに成功しているものもありましたが、ややそれが行き過ぎて飛躍が激しくてついて行けないものもありました。

 とくに若桑みどり「三つ首怪物の普遍的生命について」(『怪物』所収)は文献渉猟と想像力がともに発揮されたすぐれた作品で、エジプトに淵源を持ちルネッサンスから15・6世紀にかけて興隆した三つ首像の系譜を、ティツィアーノの『賢明』など当時の多数の図像やパノフスキーやカルターリら英伊仏の文献を広く参照しながら辿っています。スケールの大きさを感じさせるのは、ヤヌスなどの二面像と比較して二元性と三元性の持つ意味を探ったり、ヘカテの三体像、ヒンドゥー教の三神一体説、三美神やキリスト教の三位一体との関連を論じている点です。三つ首像は、過去・現在・未来という時間と深く関わっており、それはまた時間の豊穣を表わすとともに、時間のもたらす創造・生成・破壊という運命を象徴していると言います。

 他にいいと思ったのは、『怪物』では、「聖アントニウスの火」といわれる奇病の説明にはじまり絵の一場面ずつを克明に解き明かす神原正明「聖アントニウスと怪物―ヒエロニスム・ボスのリスボン祭壇画の解読」、西欧世界によく見られる回転体像を方位や時間、季節の移ろいの象徴として見、北方のマニエリストたちが好んだだまし絵風の入れ替え図像を対称と照応という点で考えた西野嘉章「絵画的トポスとしての重体像」、溢れるような生命力、豊饒な想像力を大らかに発露しているイタリア北西部ロマネスク教会の人魚像を論じた尾形希和子「海の豊穣―二叉の人魚像をめぐって」。

 『幻獣の原型と変容』では、ユダヤ民族は神の図像を禁じたため、怪物のような幻獣を生み出したとし、海洋神や鍛冶神など異教の古い神々が貶められ、キリスト教的悪魔(サタン)と合体してヨーロッパ的悪魔が完成したとする安達史人「ユダヤギリシアキリスト教世界の幻獣たち」、トリックスター的道化的な悪魔が悪魔的な道化に姿を変えてルネッサンスの民衆的な道化芝居の舞台へ登場したという堀切直人「悪魔のメタモルフォーゼ」。

 奇想天外で面白かったのは、『幻獣の原型と変容』所収の三木成夫「幻獣原型論―生命記憶とメタモルフォーゼ」と西田正秋「美術におけるAnamorphosisの一問題について」の二作品。前者は、実は人間のなかに幻獣が潜んでいると、38日目の胎児の獅頭が羅漢に似た奇怪な姿をしていることを提示した後、こうした進化史の過去の記憶を遡ると宇宙空間まで辿ることができ、それは日常の生活のいたるところに見られるメビュウス運動という永遠周行運動が宇宙の渦巻きとつながっていることでも分かると言います。後者の論文では、バルトルシャイティスが日本に紹介されるよりいち早く、形体のデフォルメという視点から、鬼、般若、龍の顔面のつながりを論じていることに驚きました。お互いの図像を橋渡しする『歪曲方眼法』という独創的な技法は出色です。

 衝撃的なフレーズがやはり『幻獣の原型と変容』所収作品の中にありました。樋口尚文「幻獣・畸型・神―スクリーンの怪物をめぐる覚書」の最後の一節、「『神』という究極の『幻獣』」、それと安達史人「ユダヤギリシアキリスト教世界の幻獣たち」のこれも最後の一節、「聖母マリアという、不具性は持たないが、処女のまま懐胎するというはなれわざを演じた幻獣」。どちらも神を幻獣の一種と見る言葉です。

 あまり悪口は書きたくありませんが、『幻獣の原型と変容』のいくつかの作品には理解しがたい部分があって、その理由を考えてみると次のようなものです。①特殊な用語の説明や論旨の根拠が示されないまま、足早に論じられていること、②他人の神秘的体験を自明のものとして論じていること、③生硬な文章で意味が取りにくいこと、④「資料」と称して一冊の本からまるまる16頁も引用していること。⑤「鼻歩動物の形態と生態」を何の解説もなく掲載していること、予備知識のない読者は煙に巻かれることでしょう。