タイムトラベルテーマの短篇集2冊

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フィニイ、ヤング他/中村融編『時の娘』(創元SF文庫 2009年)
P・J・ファーマー他/伊藤典夫浅倉久志編『タイム・トラベラー―時間SFコレクション』(新潮文庫 1987年)


 フィニイのタイムトラベルものをずっと読んできましたが、次はタイムトラベルの短篇集二冊。『時の娘』には、フィニイの短篇も一つ入っています。『時の娘』は「時を超えた愛」がテーマの作品9篇、『タイム・トラベラー』は、時間SFの定番を避けて実験的な試みの作品13篇を集めたもので、『時の娘』のほうが刊行年が新しい割には穏やかな作品が多いように思います。

 面白かったのは、ウィリアム・M・リーの「チャリティのことづて」、ジャック・フィニイの「台詞指導」、ロバート・F・ヤングの「時が新しかったころ」、チャールズ・L・ハーネスの「時の娘」(以上『時の娘』)。ソムトウ・スチャリトクルの「しばし天の祝福より遠ざかり」、ロバート・シルヴァーバーグの「時間層の中の針」、フリッツ・ライバーの「若くならない男」、C・J・チェリイの「カッサンドラ」、デイヴィッド・レイクの「逆行する時間」、フィリップ・ホセ・ファーマーの「わが内なる廃墟の断章」(以上『タイム・トラベラー』)といったところでしょうか。

 いろんなタイムトラベルのパターンが見られます。いちばん多かったのは過去にさかのぼる話ですが、これもいろいろあって、束の間過去に紛れ込む「台詞指導」、現在の知識を持ったまま娘時代に戻る「かえりみれば」(ウィルマー・H・シラス)、過去に遡る際記憶を抹消される「時のいたみ」(バート・K・ファイラー)、タイムマシンが登場する「時が新しかったころ」と「出会いのとき巡りきて」(C・L・ムーア)(以上『時の娘」)。

 過去に遡って現在を修正することが日常茶飯事になった混乱を描いた「時間層の中の針」、過去を修正しても並行世界の分岐があるから現在には影響ないと無茶苦茶する「ミラーグラスのモーツァルト」(B・スターリング&L・シャイナー)、自分の生涯の30年ぐらいのあいだを順不同に生きる「ここがウィネトカなら君はジュディ」(F・M・バズビイ)(以上『タイム・トラベラー』)。

 もう一つ多かったのは時間が逆向きに進む話で、『時の娘』では、「むかしをいまに」(デーモン・ナイト)、『タイム・トラベラー』では、「若くならない男」、「逆行する時間」、「太古の殻にくるまれて」(R・A・ラファティ)、「わが内なる廃墟の断章」。例えば、「むかしをいまに」では、「唇にくわえた薄色のハバナ葉巻は、長さ1インチもの滑らかな灰の後ろからじわじわと伸び、やがてすっかり成長が終わると、彼はそこから炎をとりのぞいて、銀のナイフで蓋をかぶせ、大切に葉巻入れへしまいこむのだ」(p53)といった具合。しかし、喋り言葉の発音が逆回りにはなっていないのは一貫性がない。

 それと、時間がループする話も、「しばし天の祝福より遠ざかり」と「時間の罠」(チャールズ・L・ハーネス)の二つがありました(ともに『タイム・トラベラー』)。前者は高度な宇宙人から一日を何百万年繰り返すように仕掛けられる話で、詩には反復が技法としてよくあるが、散文ではなかなか見られないので面白い。後者は、30年後の自分が戻ってきてドツボにはまることが繰り返され、何とかそのループから逃れようとするが、戻ったときはすっかり忘れてしまっているという悲劇。

 未来に関係した話は、愛する女性を冷凍にして病気の治療法が確立している未来に送り込もうとする「遥かなる賭け」(チャールズ・シェフィールド)、廃墟を幻視するので狂人と思われているが実は未来を予知していた女性が主人公の「カッサンドラ」の2篇(ともに『タイム・トラベラー』)。

 変わったところでは、別の時代の二人が意思疎通する「チャリティのことづて」、母と娘とその子の3人がすべて同一人物という「時の娘」、3世代が同じ時空に混在するハチャメチャ小説「インキーに侘びる」(R・M・グリーン・ジュニア)(以上『時の娘』)。時間と空間を自由に選んで映像として見ることができる装置を開発して世の中が変になる「アイ・シー・ユー」(デーモン・ナイト)、架空の過去をみんなで努力して現在の空間のなかに作りあげる「バビロンの記憶」(イアン・ワトスン)(以上、『タイム・トラベラー』)。

 この二冊に共通して言えるのは、SFというジャンルを意識して書かれたため、科学的な説明をしようとして、物理や化学の用語が出てくる作品がいくつか見られたこと。そういう言葉や説明が出てくると、妙に胡散臭い印象を受けてしまいます。また、言葉が軽く、とげとげしく、不自然さが目立つものもありました。骨組みしかなく血肉がないと言えばいいでしょうか。私のように、物語のふくよかさや、物語をもう一つの別の現実としてそのなかに没入する楽しみを求めている者にとっては残念なことです。