粕谷栄市の詩つづき

      
粕谷栄市『鄙唄』(書肆山田 2004年)
粕谷栄市『轉落』(思潮社 2004年)
粕谷栄市『遠い川』(思潮社 2010年)
古河文学館編『粒来哲蔵と粕谷栄市』(古河文学館 2006年)


 前回に引き続き、粕谷栄市を読みました。これで、入手困難の最新作(と言っても2013年)の『瑞兆』を除いて、本になっている作品はすべて読んだことになります。

 前回、どの詩集も、他の詩集との区別が見当たらず、同一の味わいになっているというようなことを書きましたが、今回読んだ詩集は、明らかに前半の詩集とは違った色合いとなっていました。前半の詩集にも見られたある要素が拡大され、反復されて、それが後半の詩作品の大きな特徴となり、また魅力となっています。その要素をピックアップしてみます。

①老いの世界をテーマとした作品が多くなっていること。『鄙唄』では9作品、『轉落』では8作品、『遠い川』では、なんと18作品にも及んでいます。死を直前にした老人が、これまでの人生を振り返り懐古するというような設定ですが、具体的かつ奇妙な風景とか、物を媒介にすることで、侘しさ、寂しさが、何とも言えずこみ上げてきます。

②前半の詩の特徴としても取り上げたことですが、非現実的なことを書いたあと、それは誰かが夢で見た世界だというふうにはぐらかすパターンの作品が多くなっています。例えば、「たぶん、これは、何もかもうまく行かず、やけになって大酒を呑み、へべれけになって寝ている男の、うすぼんやりした夢のなかのことにちがいない」(「無名」)という感じ。『鄙唄』では11作品、『轉落』では8作品、『遠い川』ではこれもなんと17作品にも及んでいます。

③老いの耄碌して朦朧とした境地と、夢の茫洋とした幻の境地に加え、死んだ女や幽冥界の私も登場してあの世とこの世が入り混じり、さらにいっそう混迷を深めています。

④よく出てくる物象としては、花(ちょうちん花、夕顔、月見草、萩、桔梗、二輪草、杏、蓮、露草、桜)、容れ物(盥、甕、桶、樽、猫車)、自然(川、砂浜)、瓜のつく植物(糸瓜、南瓜、西瓜)、あと目につくのは三日月、卵(のっぺらぼう)、蝙蝠傘といったところ。それらが幻想的な点景として、役割を果たしています。

⑤文体上の特徴としては、もともと句点の多い散文でしたが、それがさらに強められ、またひらがなが多くなってきているような気がします。例えば、「ただ、ときに、どこかで、幽かに、蟋蟀のようなものが鳴いていたことは、確かだ」(「遁世」)、「もちろん、後になって、みんな、夢のなかのことだったと分かったのも、以前と、全く、同じだ」(「無題」)という具合。

⑥前半の詩では、おそらく叔父さんの粒来哲蔵や石原吉郎などの影響を受けと思われるような、断言に満ちた力んだ作風が見られましたが、これらの詩集では、「それだけのはなしだ。もちろん、そんなぼんやりした男のはなしなど、どうでもいいことだ」(「鼻のはなし」)というように、脱力した茫洋とした世界が広がり、何とも言えない魅力があります。

 こうした老人の認知症的な世界は、自らの老境を歌っているとも考えられますが、よく考えてみると、これらの詩を書いた時点では、詩人もまだ70歳から76歳なので、そんな高齢というものでもないようにも思います。これはむしろ、世の中が現実の確とした世界から乖離し、サービス化、デジタル化、虚妄化している現状を暗示し揶揄しているか、そこまで行かなくても、そうした曖昧な世界を楽しんでいるのではないでしょうか。


 感銘を受けた作品を羅列してみますと、『鄙唄』では、「厭世」「暮愁記」、『遠い川』では、「九月」「舟守」「桔梗」「米寿」「遁世」「孫三」「夢の墓」「無題」「鼻のはなし」。粕谷栄市の詩集でどれがいちばんかと問われれば、とりわけ『遠い川』が粕谷栄市の最高作で、詩集全体が一種独特の禅的な境地に達しているように感じます。

 次点の佳作としては、
『鄙唄』の「撥」「爺」「無明」「古い桶」「坊主」「へろへろ」「花」「霊験」「極楽について」「晩夏抄」「満月」
『轉落』の「告知」「モートン・バートレット」「カスヤン兄弟」「機械」「抜け殻」「暗い岬」「海の上の月」「無名」「死体」「死んだ女」
『遠い川』の「盥の舟」「青芒抄」「幽霊」「寒川」「鉦の音」「残月記」「のっぺらぼう」「無名」。 


 前回書き忘れていたことを一つだけ。粕谷栄市は、20代前半から、代々の茶問屋の家業に就き、仕事の傍ら詩作に励んでこられたということですが、その影響が詩作品のあちこちに姿を見せていますし、エッセイにも直接そのことが書かれています。「一人の人間が、彼自身であることすら忘れて充実する時間、私は、それを『絶対時間』と呼んでいる。自分が、この世の何ものにも所属することのない時間、私は、それが、必要な人間なのである」(『続・粕谷栄市詩集』p159)というように、絶対時間を得るために詩の創作していたことが分かります。「王国」(『轉落』)で、ヘンリー・ダーガーの生き方に共感を示しているのは、自らの創作の根底にあるものと共通するものを感じているからでしょう。

 粕谷栄市には、自分が生業をしていることから、文学エリート的なプロの詩人に対する引け目のようなものが奥底に渦巻いているように思われますが、それが詩作品の純粋さを担保していると同時に、詩人としての謙虚な姿勢にもつながっているのに好感が持てます。叔父の粒来哲蔵の詩「茶」(詩集『穴』)の中に、「可哀想に、茶揉み男の子供は詩人なんぞになったのだ」という一節がありますが、これは粕谷栄市のことではないでしょうか。


 古河文学館編『粒来哲蔵と粕谷栄市』では、粒来哲蔵の詩劇『海』の1965年上演の際、「男」の役として、宇佐見英治が出演していたことを知りました。