時里二郎の二冊

函 中 
時里二郎『胚種譚』(湯川書房 1983年)
時里二郎『翅の伝記』(書肆山田 2003年)


 この人の詩集は入手が難しくて、この2冊しか読んでませんが、2冊に共通しているのは、『胚種譚』には北川健次という人の銅版画、『翅の伝記』には勝本みつるという人の装画があり、ともに装幀が凝っていることです。『胚種譚』の詩篇「肖像Ⅰ」と「肖像Ⅲ」には北川健次氏への、「肖像Ⅱ」には柄澤齊作品への献辞がついているところから見ると、美術家と親交が深い方のようです。

 一読して、高柳誠の作品と近いものを感じました。高柳より構成が複雑で奇抜なところがありますが。ネットで調べてみると、両者とも同志社大学文学部出身で、生年も2年違いなので、もしかして交流があったのかも知れません。ついでに言えば、やはり「遠近法」で架空の空間を描いた山尾悠子同志社大学文学部で3~5年違いなので、お互いの作風を知っている可能性は大きい。


 『翅の伝記』は、13の章からなり、短詩や、散文の三人称的な記述、詩人の一人称語り、古代の文書などが織り交ぜられながらも、全体が関連して、一つの大きな物語を形成しています。いろんな断片が音楽のように響きあう緻密な構成が圧倒的ですばらしい。個々の詩と全体とのこうした関連のさせ方は、すでに『胚種譚』で萌芽を見せています。

 『翅の伝記』の詩群に共通するのは、舞台が南洋の島であること。物語は入り組んでいるのでよく理解はできませんでしたが、おおよそ次のような枠組みで成り立っていると見えます。
言語学の研究者で伝説や神話を蒐集している官吏が日本から南洋の植民地へやってきて、鳥やサルの観察をし、ある島へ行こうとしたところで、本国からの召喚命令が来る。が、どうやら帰国せずにある島へ行ったらしいことが後で分かる。

②その官吏の観察の内容と思しきもの:毒トンボの翅を毟り落とすサルの生態観察、伝説や神話を食べるカミキリの存在、言葉が磨滅し意味不明の唄を歌う「謡衆」と弦状の祭具をギーギーと鳴らす「ギュイ」の追いかけあい。

③さらに、官吏の観察かどうか分からないが島に関するいくつかのこと:鳥の声を採譜した男の話、声だけしか聞こえない鳥の話、「天文台」という巨石がありかつて夭王がそこに来て「アナ、ウラ」と叫んだという言い伝え、森の中にある「ウラ」と呼ばれる穴の話、栩の木で作った刳り舟の話。

④トンボに興味を持った子どもが、大学で中世の歌謡を研究するようになる。それには海の町との交易をしている父の大きな影響があった。首都の大学で南洋の言語学を修めたが、どうやら、彼が官吏となったらしい。
→理解不足だと思うが、一つ不可解なのは、前半部分で、この語り手(ぼく)が、カミキリについての記述のある官吏の手帖らしきものを手に入れたエピソードが語られるが、自分が官吏となるのであれば時間的に矛盾があること。

上代親王が厄災を祓うために仮宮に移される習わしがあったが、その一人が自ら夭王と名乗り失踪する。彼を捕まえるべく追補使が派遣されるが、捕まえることができないまま、彼らも都に帰ってこなかった。

 それで何が妙味かと言うと、次のような点でしょうか。
①神話的伝説的な風習、自然の生態観察と、上代の失踪譚と、子どもの成長と父子間の関係を描く現代生活が同じ舞台、同じ物語でつながっていること。

②共通する話題が、13の各章のいろんな部分に顔を覗かせていること。カミキリムシ、トンボ、父の机の抽斗、標本商、刳り舟、栩の森、天文台という名の巨石、など。

③名称も響きあっていること。地名の穴浦が、浦、阿浦、ura aura、と次々に変奏されて行く。それに、トンボの翅と栩の森の「翅」と「栩」の字の形象の類似。

④詩の文体が巧緻であること。「手帖」の冒頭部分など、ヴァレリーの初期詩の繊細さを思い出した。                                


 『胚種譚』は、古代伝承に材を採った1部と現代生活が舞台の2部の二つに分かれ、1部に6篇、2部には3篇が収められています。1部の最初の3篇が、同じ時代の同じ邑が舞台のようで連作的ですが、『翅の伝記』に見られる相互の強い関連はありません。1部で、すでにトンボ、語り部、楽器、舟などが登場しているのは、『翅の伝記』の世界につながるものと思われます。

 処女詩集らしく、若書きの感があります。とくに1部の「荒ぶるつわものに関する覚書」、「速鳥変幻」の2篇は、抽象的、観念的で理屈っぽい。気難し気な男の苦虫を噛み潰したような顔が見えてくるような文章です。2部の「非在の樹」、「Friday氏の広場」のように、現代生活の不思議譚の方が、神話的民話的装いの物語より肩の力が抜けて面白い。

 なかでは、死者の残した石の耳を麻袋に入れて持ち歩くと、石の耳の擦れ合う音が響くという石の工匠の物語「石守」と、肖像画の人物が手にしている紙片に書かれた詩句が自分の書いたものだと発見し驚愕する「非在の樹」が出色の作品。

 著者は漢字の形に魅せられているところがあります。「肖像Ⅰ」を例にとると、「鱗翅類」、「繭」、「掬われた」、「蒼穹」、「掌」、「翳り」、「螺旋」、「嘴」、「棲む」、「腐刻画」などに伺えます。

 『胚種譚』のほうに、珍しいことですが、落丁がありました。p34,35、それと対になるp46,47が空白となっていました。もしかして詩的効果を狙ったのではとも思いましたが、ページ番号も打たれておらず、落丁に違いありません。こんなことがあるとは。また全体を見渡せる目次がないのも不思議。