ウィル・ワイルズ茂木健訳『時間のないホテル』(東京創元社 2017年)
タイトルと表紙の絵に惹かれて購入した本。次元SFの一種ですが建築幻想小説のジャンルに入るものと思います。「あとがき」によると、著者は建築やデザイン畑のノンフィクション・ライターだったそうで、さらにこの作品を書くに当たって、いろんな人から国際見本市やホテルの実地を教わったり、専門誌を読みこんだことが、巻末の著者の「謝辞」からうかがえました。小説を本当らしく見せるために、ノンフィクション的な視点が現代の小説技巧のひとつになっているのは確かなようです。
国際見本市が舞台となっていて、総合受付があり、配布資料のセットを渡され、首から名札をぶら下げて、送迎バスに乗り、会場ではコンパニオンが右往左往しているなど、読み進めてすぐ会社勤めのころが懐かしく思い出されました。また、この本の主要なテーマは、巨大なホテルの無限空間ですが、出張先で酔っぱらって帰って来たときなど、ホテルの廊下で方角を見失うことは誰も体験していることではないでしょうか。
(この後ネタバレ注意)
前半しばらくは(66頁ぐらいまで)何事もなく進みますが、そのあたりから、主人公にある悪意が迫ってきます。最初は、見本市会場でパネルディスカッションを受講者として聴いていたら、一人のパネラーから名指しで批判されたり、慌ててホテルに戻ると廊下で迷ったり、部屋でラジオのノイズが大きくなって止めようがなかったり。次の日は会場へ行く送迎バスに拒否され歩いて会場まで行くと、見本市から入場拒否されていることが判明し、雨の中とぼとぼと帰る羽目になったり。いじめを受けつまはじきにされているような不快な感覚の追体験。読んでいてハラハラはするが楽しいものではありません。マゾヒスト向きでしょうか。
後半は、この巨大ホテルチェーンの謎が明らかになりますが、世界に500カ所以上あるというそのホテルが時空を超えて繋がっているというものです。第2部の終わり、水平線までホテルの廊下が延々と続いているという光景は圧巻。また第3部の次の連続した場面も魅力的です。ホテルを出ようとして、どう試みても下の階へ移動できなくなって、部屋の窓を叩き割り、ベッドのシーツを裂いて垂らして下に降り、ようやくホテルから脱出できたと思って振り返ると、窓から見下ろしている男がいた(p318)。しばらく歩いて気がつくと、そこはまだホテルの中庭だったという徒労感(p320)。そしてその後、ホテルの部屋に戻り、窓から下を見おろすと、逃げ出そうとしている男がいた。未来の自分が過去の自分を目撃していたのだ(p333)。
ほかにいくつか印象的なところがありました。ホテルの部屋のテレビのホームページ画面を見ていると、従業員一同の写真のなかから、敵対している男が抜け出しこちらに向かって歩きながら、語りかけ、どんどんズームアップしてくる場面(p289)。物語の最後で、不死身と思えた頑強な敵が、主人公の誘いで、威力の及ぶホテルの圏外に誘い出された途端、音もなく朽ちはじめ、針金の人形がスーツを着ているように細くなり、顔には皺が刻まれ、眼は眼窩に沈み、髪は白くなって抜け落ち、身体が崩れ落ちた後は黒い山となって、最後は風が黒い塵を吹き飛ばしてしまうという怪奇映画さながらの情景(p373)。
作者のどこかに現代の巨大化複雑化イベント化したビジネス社会への批判があるような気もします。巨大ホテルから見本市会場まで、高速道路をまたぐ空中回廊を歩いて行けるようになっていますが、まだ中央部分がぷっつり切れ未完成で、歩いて行くとすると、高速道路を横切らないといけないという不条理な状況。また見本市出席代行業という主人公の職業にも皮肉が現われています。そう言えば、むかし、イヴェント会場の受付で中に入らずプログラムだけもらって帰って行く人たちがいましたが、あれはアリバイ作りだったんでしょうか。
小説はたんにストーリーだけを楽しむものではなく、いろんな楽しみの要素がありますが、そのひとつに、小説の地とでも言うべきものにどっぷりと浸るということがあります。捕物帳なら江戸時代の庶民生活、西部劇なら19世紀アメリカの開拓地、ハードボイルドなら1920~50年代アメリカの都会、アンリ・ド・レニエやジャン・ロランなら18~19世紀フランス社交界。そういう意味で、この小説の地となっているのは、20世紀後半~21世紀初頭にかけてのアメリカ風ビジネス社会。日本のビジネスマンにとっては新鮮味のない話ですが、もしこの小説を世界のほかの前近代的地域の人々、あるいは22世紀の人たちが読めば、その点でも楽しめるかも知れません。