:立花種久の2冊

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立花種久『私設天文台』(パロル舎 1988年)
立花種久『森のなかで』(パロル舎 1990年)
                                   
 これらの本は、むかし同著者の『喪われた夜』『にぎやかな夜』を読んで、夢のなかをさ迷うような感じの物語を探していた私の感覚にぴたっとマッチしたので、その後新刊が出る度に買い置きしておいたものです。今回まとめて読んでみようと思いました。

 夢の中をさ迷うような物語というのは、おそらく学生時分に酒を飲んでは意識を失っていた体験が招きよせた感覚だと思いますが、偶然にも、自分の存在が溶解していく状況を描くという現代文学のテーマと響きあうものだったようです。

 はじめてそうしたテーマを意識した作品は、ぼんやりとした記憶で時系列的に辿ってみると、おそらく矢島輝夫の「私を背負って」「墜ちる―棒が?」だったと思います。その後、上田周二「闇の扉」「闇・女」や香山滋の「臨海亭奇譚」、高橋たか子『骨の城』の諸篇など、海外の作品では、ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ」、ハンス・ヘニー・ヤーン「鉛の夜」などを、そうした系譜の作品群として、意識しました。

 それを自分勝手に彷徨小説と呼んで、アンソロジーの企画を考えたりしたこともありましたが、それは他にも考えたグロテスク小説(これも勝手な名称)の企画とともに、知らぬ間に霧散してしまいました。

 その後、マルセル・ブリヨン松浦寿輝の作品にそういった雰囲気を感じ、最近では、トーマス・オーウェン「サンクト=ペテルブルグの貴婦人」「晩にはどこへ?」、クロード・ファレール「どこへ?」、ユベール・アダッド「不死の秘密」、ブランショ「アミナダブ」など多くの作家が書いていることが判りました。まだまだ知らないのがあるようです。


 彷徨小説の特徴をあげてみますと、
①登場人物は、一人称単数の私であることが多い。(例外として、一人称的な彼だったり、複数の我々だったりすることもあるが)
②登場人物は、自分をコントロールできず、次にどう展開するか予測がつかない夢の特徴をそなえた状態に置かれている。
③舞台はおおよそ夜の街であり、あるいは見知らぬ街、薄暗い森の中などで、そこを登場人物がさ迷う。
④建物や、広場、庭などがよく出てくる。廊下や階段が迷路のようになっている。
⑤登場人物は、自分の置かれた状況が夢か現実かをたえず自問しながらさ迷う。
⑥頻出するキーワードは、「我に返る」「朦朧」「酔ったみたいな」「区別がつかない」「見覚え」「記憶にない」「困惑」など。
⑦結末は、茫洋として取り留めもなく、余韻の残る終わり方をする。


 立花種久のこの2作品もまさしく、ブリヨンやブランショに通じる悪夢小説と言えるでしょう。一般的な彷徨小説ととりわけ違うところは、
①少し陰湿な日本的感性が感じられるところ。一つのことをああでもない、こうでもないと堂々巡りしながら考える場面が多い。言い訳、言い澱み、逡巡。前文を打ち消しながら進む。衒い、気取りといったものも感じられる。そうした逡巡のなかに幻想の入りこむ隙があるような気がする。
②ほとんどが酩酊小説と言える。主人公はだいたいが酒に目のない男性で、少しの時間を見つけては酒を飲んで、自分がどこに居るか分からなくなってしまう。このあたり共感を覚えるところ。
③人との関係、心理の動きにひたすらこだわっていて、風景の客観的記述がほとんどない。
④『森のなかで』ではさらに、被害妄想、陰謀妄想が募っているように思う。


 具体的に文章を引用してみますと、

その点になるとさらに心もとなくなってくるが、そのことを憶い出すのはさしあたりあとまわしにしようとさっき思ったばかりであるはずだ。(「虫の研究」p115)

いまさら驚く必要もあわてる必要もない。それどころか、迷う者にとってのみ真に、これら廃屋は存在を顕すのだと思える。わたしはこの薄明の町をよく知っている。わたしは夢見る者であり、かつ同時に夢見られる者であり、この町はそれらの源たる古い夢の棲まうところなのだ。(「星の駅」p192)

水族館へいったのはいつのことだろう。水族館はたしかにどこかにあるのだが、どこにあるのかうまく憶い出せない。それは夏のことで、しかしかれはいまその夏から遠く隔てられたところにいて、夏のことなど忘れ去って久しい。一方、忘れ去って久しいその潮だまりのような夏のなかに、取り残されたままのもうひとりのかれがいるらしい。・・・気がつくと、ぶ厚いガラスのむこうからそんな自分を熱心に覗き込んでいるのは、たしかにかれ自身なのだ。(「水族館」p285)

ぜんたい、なんの用があってこんな道をひとりてくてく歩いているのか、どう考えてもわからない。というより、なんの用などということは慮外にあり、なんだかうつけたようにただひたすら歩いている。・・・その道がどこへ通じているのか知らない。・・・たしかに、それは何度も何度も辿った道とすぐにわかり、そのくせどこへ通じているのか知らないのは相変わらずなのだ。(「森のなかで」p22)

 どの作品も一定の水準があって面白く、よくもこう同じような感じの話をどんどん思いつくものだと感心してしまいます。


 それぞれの本の印象深い作品をピックアップしておきます。
○「虫の研究」→数字を扱う仕事をしている男のところにいろんな来訪者があり、次第に精神が崩壊していく話。それを内面から描いているが、次第に躁がクレッシェンドしてゆくところが絶妙。
○「砂漠」→悪夢のような風景。石焼料理屋の外は砂漠だ。集会に遅れまいと人々が動き、ぼくも会場へ急ぐ。が実はまだ料理屋に居るのだ。
○「水族館」→かれは、夏の陽のもとを歩き、水族館に至る。しかしそれは車にはねられて見た夢か。
以上、『私設天文台


○「かくし絵の森」→森のなかへ高値で売れる虫を捜しに来たぼくと友人Jとその連れの女。しかしそこはすでに同じことを考えてきた人たちでいっぱいだ。交易所まである。だが森のなかではぐれ迷い、夢と現実が入り混じって、混沌として来る。
○「茸」→茸を採りに来たぼくと友人。宿に泊まるが、同じような人でいっぱいだ。友人を残して、宴会に潜りこんだりしているうちに、部屋が分からなくなり宿のなかをさ迷う。
○「深夜劇場」→かれは港のバーで男の連絡を待つ。参加した野外の宴会で、女の家に寄る途上、そして自宅から、つねに月の光を見るが、すべてがおぼろだ。
以上、『森のなかで』

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 おまけとして、昔の読書ノートから、『喪われた町』の感想と印象深い作品、『にぎやかな夜』の印象深い作品を写しておきます。

「季節はずれ」を読み始めてすぐ思い浮かべたのが、矢島輝夫の「暗き魚」の作品である。一人称単数の不安と幻想のなかでの彷徨に詩情がある。私小説幻想小説的展開と言えるだろう。それは「ツィゴイネルワイゼン」的な屋敷のなかの探索であったり、「審判」的な不可解な群衆が登場したりする。それは陰画の世界であり、まさしく60年代後半の空気を伝えるものである。
○「季節はずれ」→階段をひたすら登りつづける。
◎「スィートホーム」→都市の廃墟。
◎「地図売り」→黄昏の町へ、幻想市街地図、着地不出来。
◎「喪われた町」→地獄めぐり的地下の街。
○「ノクターン」→フランシス・ベーコンの絵のなかの男がモチーフ。
(以上、『喪われた町』84年12月)


◎「公園通り」→泥酔して家の近所でタクシーから降ろされ置き去りにされる。
○「G駅の周辺」→知らない土地で迷ってしまう。
○「消防隊」→寝ているところを叩き起こされ出動する消防自動車だが誰も行き先を知らない。
(以上『にぎやかな夜』92年12月)