:高濱虚子『渡佛日記』


高濱虚子『渡佛日記』(改造社 1936年)


 高濱虚子が昭和11年2月から6月まで、上海、香港、シンガポール、カイロなどに立ち寄りながら、マルセーユに着き、パリを中心に、アントワープ、ケルン、ハイデルベルク、ベルリン、ロンドンとヨーロッパを周遊した際の日誌と、旅先から日本の新聞雑誌へ寄稿した文章、パリ・ベルリン・ロンドンでの俳句講演の内容を収めたもの。虚子の句や句会メンバーの句もたくさん載っていて、543頁もある大部な本です。

 120日間の旅のうち80日間が船上というのは今から考えると、何とも効率の悪い話ですが、途中でいろんな国に立ち寄ったり、船の中で句会を何度も催したりしていて、逆にのんびりしたいい旅とも言えます。新聞社から欧州特派員として派遣された横光利一やパリ留学へ行く途上の宮崎市定も同じ船に乗り合わせ、2.26事件が起きたことも船の上で聞いています。

 船旅で情緒を感じるのは船が港へ着いたり離れたりするときで、出迎えや見送りの人びとを遠くに見て旗を振り合う姿は何とも言えません。また船同士でも感動的な場面がありました。マルセーユを「箱根丸」で出港する時、日本から来る「筥崎丸」に知人が乗っていて、港で会う予定が、その船が遅れたため、出港した後に船同士がすれ違うことになって、「清三郎君は早く私達の姿を認めたものと見えて、舳の方から帽子を振りながら流星の如く艫の方に駆けて来・・・そこで私達も国旗を振りながら、同じく舳の方から艪の方へ駆けて行って、互いに最後方の手摺に乗り出すようにして、国旗やハンケチを振り合うのであった」(p314)という場面。

 日誌を読んでいちばん感じたことは、たいへんな大名旅行だということ。船では機関長楠窓や娘の章子がぴったりと虚子に貼りつきあれこれ世話を焼いたり、船が寄港するたびに各地の大使館や企業の人間が大騒ぎで迎えてくれる様子は尋常ではありません。さすが大家になるとこんなものかと驚きます。ヨーロッパに着くと今度は息子の友次郎があれこれと世話しています。

 本人は「行って来よう」でも書いているように、「鎌倉から東京へ毎日通っているその延長のつもり」というちょっとそこまでという気楽な気分で、旅行中もずっと羽織袴のままの服装で通しています。旅程もあなたまかせ、実にいい気分です。スフインクスの前で和服で写っている面白い写真がありましたので載せておきます。服装に関しては草履のことが折に触れ出てきて、アデンでアラビア人とお互いの草履を不思議そうに眺め合ったり、カイロでツタンカーメンの金の草履を見て、古来も今も、足指の間に鼻緒をはさむという同じ方法なのに感心したりしています。

 少し虚子を弁護すると、海外でも、原稿を書いたり俳句雑誌の雑詠欄の選をして日本に送り、現地で急に講演を依頼されても気軽に引き受けて、忙しく働いている様子がうかがえました。


 この本の圧巻は、やはり虚子が本来の俳句活動をヨーロッパで展開した部分で、パリでフランスの詩人たちと会って短詩について議論したり、ベルリンの日本学会で俳句がいかなるものかを説明し句会を開いたり、ロンドンのペンクラブで講演したりするところです。虚子は「近頃の日本の文芸は西洋の文芸の影響を受けて新しき発展をとげつつ」あるが「最も日本人的な文芸の俳句というものが何等かの影響を諸君の文芸に与える事も亦無意義な事ではなかろう」(p482)と意欲満々です。

 シュペルヴィエルと虚子が出会っていたのは驚きですが、虚子の主張は一貫していて、俳句は575の音数と季題という二つの特徴があるなかでも、とりわけ季題が重要であるという点で、フランスに俳句を伝えたクーシューは音数だけを気にして季語という大事な点を伝え忘れたと指摘しています。西洋の俳句は「『雲が重畳と重なって居る、私の恋がどうかした』と云う類の句であって、初めの方は叙景で行って居っても、それは単に或る情を象徴したものに止まって、直ぐ後には、其情を露わに述べる」(p302)と言い、日本の俳句は「現象を詠う場合に、それを人間の運命に譬えたり、又それによって恋を詠ったり又哲理をその中に見出したりすることは直接にいたしませぬ。ただそれ等の現象は、それ等の現象として受け取って、自然を礼讃し、それによって作者の情懐を遣るのであります」(p476)と述べています。

 ベルリン日本学会での講演「何故日本人は俳句を作るか」は、虚子の俳句に対する思いが詰まっていて、これだけでも読む値打ちがあります。講演の後の句会や海外各地で行なった句会で、外地の日本人が作る句を読んで、「初めて作って見る人々であっても、満更俳句にならぬものを作る人は無いように見受けられ・・・春夏秋冬の現象を諷詠し故国を懐かしむ情は千万里の外の遊子の胸に如何に濃いものがあるか」(p184)を実感したという点で、この旅は虚子にとっては重要な意味があったと考えます。

 パリでフランスの詩人たちが短詩を披露したなかでは、シュペルヴィエルとクーシューの作品が俳句的味わいをうまくつかんでいたので、少し引用しておきます。「Dans la forêt sans heures/ On abat un grand arbre./ Un vide vertical/ Tremble en forme de fût/ Près du tronc étendu.// Cherchez, cherchez, oiseaux/ La place de vos nids/ Dans ce haut souvenir/ Tant qu’il murmure encore(永遠の森の中で、/ 大木を伐り倒す。/ 空虚な地平線が、/ 横たわった幹の傍らで、/ 銃床のようにふるえる。// 鳥よ、まだささやきの聞える/ この思い出の中に、/ お前の巣を作る場所を探せ。)」(シュペルヴィエル)、「Dans un monde de rosée/ sous la fleur de pivoine/ rencontre d’un instant(ばら色の世界/ ぼたんの花の下で/ お目にかかったひと時」(クーシュー)。(和訳は山崎朔三氏)。


 虚子の句もたくさん載っています。日常を詠った平明な句がほとんどですが、印象に残ったものとしては、
亜典とは鬼棲む地かや上陸す/p96
反芻して駱駝下目を使ひをり/p97
フランスの女美し木の芽また/p145
古城にナチスの旗や春の風/p202
この暑さは火夫や狂わん船やとまらん/p324
白藤を見し目に牡丹かがやけり/p277
蝶々のとまりかねたる風の百合/p277
(最後の二句はこの旅の作品ではありません)

 他の人の句では、
黄金藤たそがれなればほの白き(志村空葉)/p336