:俳句の本二冊

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坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん―俳句百年の遊び』(岩波書店 2009年)
秋山竹英子ほか『酔眼朦朧湯煙句集』(「酔眼朦朧湯煙句集」編集委員会 1998年)

                                   
 最近頭がふにゃふにゃになってきたので、「モーロク」「酔眼朦朧」という言葉に惹かれて読んでみました。『酔眼朦朧』のほうはそれに近い句も見受けられましたが、『モーロク俳句』のほうは、題名とは違い、中身はまっとうな俳句論や俳句史解説で、いたって真面目で硬い雰囲気。裏切られた感じがしました。とくに「戦後俳句のゆくへ」は生硬なくらい。


 『モーロク俳句ますます盛ん』を読んでいて、書いてあったことと、刺激を受けて考えたことを合せて少し書いてみます。まず、俳句の最大の特徴は17文字という短さなので、いかに広がりを作るかがポイントになりますが、そのことに関して:
①ひとつの方向は、「非特定の他者」が読む場合、一語の単語にどれだけの広がり深さ重さを籠めるかという手法で、その代表が季語の利用である。季節感というのは日本人の集合無意識のなかに形成されているもので、その一語で季節全体を引っ張りこむ力がある。
②同様な働きとして、この本では、遠い昔に思いを馳せる言葉を導入することで俳句の時空を広げる時代俳句を提唱している。そうであれば、共通の土壌ができているワイドショー的な関心を取り上げる時節俳句というものも考えられる。
③読者が「非特定」からマニア的小グループに狭められるが、本好きならピンと分かるブッキッシュ俳句(本当は古本俳句と言いたいが)、鉄道マニアには言わずとも伝わる鉄道俳句等々の同好俳句もありえるだろう。
④もうひとつの方向は、③をさらに狭めて「特定」のある閉じられた仲間うちの空間に限定し、共通の題目あるいは風景をもとにした作り方がある。それが句会とか吟行ということだろう。
⑤純粋な俳句としては邪道だと思うが、また別のやり方として、句の前に前書きをつければ句以外の世界が広がるのは当然である。それと似たものとして連作で同じテーマを続ける方法もある。エッセイのなかで句を披露するのは、エッセイが主体で句は従となるが、広がりは充分保証される。


 また、自由律と定型の問題に関連して:
①「沼はあとから私について来た。背なかが青くそまるのを感じた」という前田夕暮の自由律の口語短歌が引用されていたが、これはもはや短歌ではなく短詩。
②自由律は今日ほとんど忘れられており、大正から昭和戦前に存在した特異な詩歌として終るのだろうかと書かれていたが、自由律は海外俳句として逆に世界に蔓延したと言えるだろう。
③口語という場合にも、喋り言葉の口語と書き言葉の口語の二種類があり、上記の夕暮の短歌は書き言葉の口語を使っている。「愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う」(俵万智)というような喋り言葉でないと口語の意味がない。


 上野千鶴子との対談が収められていてこれがなかなか面白い。というのは、上野千鶴子が放哉や山頭火など自由律を高く評価していて、その理由として表現の贅肉がないと指摘しているからです。私も以前詩の究極の姿はため息と書いた覚えがありますが、彼女も、言葉の究極は「呼吸(いき)」であるとし、さらに放哉らの句を評しながら、そこに気合とか、ためいき、愚痴が見られると言っています。また短い詩型の中で調べを歌っている点にも着目しています。

 読んでいていいなと思う句は、何度も読んで半分覚えかけているような句が多い。例えば、「咳をしても一人」(放哉)、「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)、「白牡丹といふといへども紅ほのか」(虚子)、「うしろすがたのしぐれてゆくか」(山頭火)、「鈴が鳴るいつも日暮れの水の中」(中村苑子)、「水枕ガバリと寒い海がある」「緑蔭に三人の老婆わらへりき」(三鬼)というような句。初めて出会った(と思う)句でいいなと思ったのは、
いま人が死にゆくいへも花のかげ
静かなるさくらも墓もそらの下(以上高屋窓秋の連作「さくらの風景」より)
雷一過青と金とに孔雀濡れ(草田男)
かくれんぼ三つかぞえて冬となる
枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや
母を消す火事の中なる鏡台に(以上寺山修司


 『酔眼朦朧湯煙句集』は、種村季弘ら温泉好き酒好きの面々が温泉宿を中心に開催していた句会の10周年の記念句集。メンバー30名強のうち23人がそれぞれ自選20句ずつを寄せています。名前を知っている人は、秋山祐徳太子池内紀田之倉稔舟崎克彦ぐらいか。

 なかでは、秋山竹英子(祐徳太子)、小川透明人(とめと)の句が私の趣味に近い気がしました。秋山氏の作品は、テレビとかで見た印象に似て、破天荒な大胆さと演劇的趣向がほの見える作風。小川氏の作品は抒情的で幻想的、具象にやや欠ける点がもったいない。他の人の作品でも、抽象語を安易に使っている句は底が浅く感じられました。種村陶四郎(季弘)の作品も型破りの面白さがありました。


 面白かった句を引いておきます。
踏みはずす春の階段海坊主
この夏を素足で歩く十面相
清流や怪しき鮎の下心
コオロギの屍笑うペルシャ猫(以上、秋山竹英子)
水すましいつか触れなん鯉の髭(安藤二庵)
夕櫻まどへる魄(たま)の寄り集ふ
下闇の息する気配に導かれ
月出でてまぼろしの町路多し(以上、小川透明人)
カーネーション束ね持つ手や小指無し(高砂塊団児)
マスクしてドラキュラの居る歯科醫院
こら空を剝がすな空の裏も空(以上、種村陶四郎)
花火果ててけだるき月の黄色かな(平賀さち女)
冬の灯を消して一人の闇となる(復本鬼ケ城)
柘榴食ふ尼僧は薄き目をあけて(松崎水屯)