:Jules JANIN『CONTES FANTASTIQUES ET CONTES LITTÉRAIRES』(ジュール・ジャナン『幻想・文芸短篇集』)

///
Jules JANIN『CONTES FANTASTIQUES ET CONTES LITTÉRAIRES』(ressources 1979年)

                                   
 生田耕作旧蔵書。国内のネットで購入した本。ルリュールの外観と、「神戸奢灞都館主蔵」の印が捺されている扉の部分を載せておきます。

 ジュール・ジャナンはネルヴァルの友人ということで早くから名前は知っていましたが、読むのは初めて、とここまで書いて念のため調べてみたら、『フランス幻想文学傑作選①』(白水社)に「Honestus(正直)」が入っていて、すでに読んでいることに気づきました。何とも情けない。その時は無印の評価、今回は〇の評価です。じっくりと読んだせいか。

 この本は、1863年の再版の復刻版で、編者の辞、著者序文(再版と1832年初版の二つ)に続き、22篇の短篇小説が収録されています。Jean DECOTTIGNIESの編者の辞では、ジャナンの経歴を紹介し、文学史的な位置づけを語っています。ジャナンは本来保守的な文学者で、当時流行のロマン的熱狂小説を笑いのめすために、彼らを凌ぐ悪夢や偏執を綴ろうとして、自らもロマン主義の熱狂に侵されてしまっていると見ています。

 ジャナン自身の初版時の長い序文は一種の幻想文学論になっています。前置きや脱線が多く、かつ小説仕立てで饒舌で、なかなか本筋に入っていかないのが瑕ですが、序文の割には読みやすく面白いことはありがたい。そのなかで、「幻想的」というタイトルをつけたのは、その言葉が流行しているので惹句として使ったと正直に白状していることと、蒸気機関や鉄道の時代には牧歌が歌えなくなったので、大きな情熱から逃れて小さなもの、幻想すなわち詩のある短篇を書くのだと言っていることが印象に残りました。その幻想短篇の書き手としてホフマンを崇拝し、この本の中でも何篇かにホフマンを登場させています。

 何ということのない話ばかりなのに、その話に持っていく前段が巧みで、語りの面白さがあります。文章が豊かに感じられますが、そのもとは何かと言えば、過去の歴史上や文学作品上の人物、神話の神々がいたるところに出てくることでしょうか。背景を調べるのに時間がかかるし、辞書にも出ていないような人名が頻出して意味不明なところもあるのがやっかいですが。昔の西洋の小説にはこうした脱線をよく見受けます。これは日本の本歌取りや季語と同様の働きをしていると思われます。言葉そのものが表現する意味とは別に、背後にある膨大な世界を引き込む力を持つもので、それは文学のかなり本質的なあり方のような気がします。

 前にも書いたことがありますが、例えば「絹の梯子」なんかを読んでいると、19世紀前半のフランス作家がエジプトの話を書いたのを21世紀極東日本の私が悦に入って読んでいるという不思議な屈折に、ふと眩惑を覚えてしまいます。


 各篇を簡単に紹介しておきます。                   〇Kreyssler(クライスラー):ホフマンの小説の技を讃えた作品。ホフマンの生活もモデルにしていて、居酒屋で飲み耽る男の幻想を描いている。この本の中では幻想的作品と言える。
〇Honestus(正直):悪徳をこの世からなくしたいと願った若者、だが悪徳をなくしてみると、世の中は大混乱に陥った。悪徳と美徳のバランスを説く、一種の観念小説。
La mort de Doyen(ドワヤンの死):時代が散文的平俗的になるなか、古典劇の格調とドラマ性を大切にしたある演劇人へのオマージュ。実在の人物を想定しているとも考えられる。
Jenny la bouquetière(花売り娘ジェニー):一種の散文詩。花売り娘が画家のモデルとして尊重され、絵の中で美をふりまく様子が語られる。彼女の美を再現できないと筆を折った画家と結婚する。
◎Maître et Valet(主人と召使):幻想的物語。夜夢の中で召使の生活を送るという奇怪な業を背負った名士の物語。導入部からの語りが巧み、かつ無駄がない。
〇La Vallée de Bièvre(ビエヴルの谷):古本小説。天国のような自然豊かな場所に、パリから都会の喧騒を身につけたような男がやって来た。沈黙を好む仲間が何とか会話を途切れさせようとするが、5万フランは貸せても貴重な古本は貸せないという古本狂の話になって、皆巻き込まれてしまう。
Le Haut-de-chausses(半ズボン):ヴェルサイユのカフェで独り酒を飲み幸せを満喫していると、飛び込んできた王の士官の狂乱と弁舌に翻弄される話。
〇L’Échelle de soie(絹の梯子):ナポレオンのエジプト遠征に参加した時に、カイロで屋根から女風呂に落ちた斥候隊の天国のような夢心地とそこからの脱出行を語る。まさにフランスロマン主義のオリエンタリスムを示す一篇。
Le Voyage de la lionne(雌ライオンの旅):古典悲劇と対照させながら、現代のドラマを語る。弁護士が雌ライオンに噛まれたというだけの話だが、そこには悲劇の要素が欠けることなくあるのだ。
La Fin d’automne(秋の終り):妻の浮気の現場を友人一堂に見られてしまった子爵だったが、それがきっかけで二人はいっそう仲良くなり、夫婦の鏡として讃えられるようになったという話。自然と一体となった館の描写が美しい。
Hoffmann et Paganini(ホフマンとパガニーニ):音楽小説。才能が枯渇したと嘆くホフマンと酒場にいると、そこに現れたヴァイオリンの名手が超絶技巧で魂の籠った演奏をした。ホフマンは彼パガニーニを絶賛し、苦しみがなければ天才は生まれないと論じる。
Les Duellistes(二人の決闘者):珍しく落ちの効いた一篇。親友と決闘し、運よく穴が開いただけで済んだ私の帽子と親友の帽子と交換し仲直りした。が私の愛する女性は親友の被っている帽子を見て、私を冷酷な人だと思い親友のほうに鞍替えしてしまった。
〇Vendue en détail(小刻みに売る):グロテスクな寓話。貧乏な少女が陰険な老婆の手引きで、髪、歯、血と、身体の部分を少しずつ売っていく。最後は焼死するが、貞潔だけは最後まで売らなかった。
◎Rosette(ロゼット):語りの面白さにあふれた一篇。監獄に捕らわれた恋人のもとに僧衣に身をやつして忍び込み愛し合う、禁忌と聖性と快楽が入り混じる描写は官能的。最後にかつての恋人同士が断頭台に向う同じ馬車で再会、物語の衝撃を深めている。
Iphigénie(イフジェニ):真の恋愛は心の中だけのもの。昔の恋を追いかける空しさを説いた話。かつて愛した女性の理想の像は台座から現実に降ろしてしまうと、もう元には戻らない。
Strafford sur l’Avon(ストラトフォード・アポン・エイヴォン):シェークスピアの生家探訪記。夕方、切株に座っていると、エリザベス朝時代のロンドンの幻影が絵巻物のように眼前に展開した。がそれも一瞬のできごと。
〇Rêvrie(夢想):邯鄲の夢のフランス版。貧しい少女が夢見た成功物語。最初は現実的な少しの夢想から始まり、徐々にクレッシェンドして上り詰めていくところが凄い。
〇La Vente à l’encan(競売):「革命とは王権を転覆させることだが、また競売にかけることでもある」。競売場で、革命で亡命した皇女の品々を紹介しながら、王室の栄耀が凋落していく無残さが語られる。
Rambouillet(ランブイエ):1830年の7月革命の様子を語る。革命の暴徒はシャルル十世がいるランブイエをめざしたが、すでに王は亡命していたので、王の馬車を分捕って凱旋する。ジャナンは暴徒の軽率な行動を小話を引用して諫める。
La Soirée poétique(詩の夕べ):友人の芝居の初演を見に行った仲間が、終演後の感激の中で、散文の劇と詩の劇の違いを論じ、実際に、5幕物の芝居に模して詩を順番に朗読する。
La Rue des Tournelles(トゥルネル街):男勝りのサロンの女王のところに、その親友の女性が駆け込んできた。彼女は王の寵愛を受けるのに悩んでいた。二人の会話を通して権力に対する女性の生き方を語る。
La Ville de Saint-Étienne(サン=テティエンヌ市):ジャナンの生まれ故郷サン=テティエンヌの思い出を語る。石炭を中心とした工業、産業の町。人々は貧しく、自然が破壊され汚いが活気ある町だ。


 最後に、些末な発見があったのでご報告。「過ぎたるは及ばざるがごとし」と同じことをモンテーニュが言っていること。「L’archeur qui outrepasse le but, faute comme celui qui ne l’atteint pas(矢が的を行き過ぎるのも届かないのも同じ射ち損じ)」(p198)、また1830年代にすでに、通り過ぎる馬車の番号が偶数か奇数かで賭けをしていたことが分かった(p206)。