:幕末維新のパリ体験二冊

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井田進也校注『幕末維新パリ見聞記―成島柳北「航西日乗」栗本鋤雲「暁窓追録」』(岩波文庫 2009年)
高橋邦太郎『花のパリへ少年使節―慶応三年パリ万国博奮闘記』(三修社 1980年)


 今回は、幕末維新の日本人のパリ体験記を二冊。『幕末維新パリ見聞記』は、成島柳北が1872年〜73年東本願寺の上人に随行してヨーロッパの宗教事情を視察に行った時の日誌「航西日乗」と、栗本鋤雲が1867年〜68年に、冷えつつあった親仏関係を回復するよう命を受けて、パリ万国博に参加している徳川昭武一行に合流した時の記録「暁窓追録」を収めたもの。『花のパリへ少年使節』は、そのパリ万国博に参加した一行のヨーロッパでの様子を面白おかしく報告したもの。栗本鋤雲は両書ともに登場します。

 『幕末維新パリ見聞記』と『花のパリ少年使節』の二つが大きく違っているところは文章で、前者は当時の人物が書いたものなので、漢字だらけの堅苦しい文語調で、大言壮語的なニュアンスや、表現のマンネリ化が感じられ、言文一致運動が起こったのも納得できました。後者は、今日の日本語で書かれているうえに、言文一致すぎるほどのくだけた表現が見られ、少し講談口調が混じっている気もします。例えば「うっかりノコノコ江戸の町中を歩きまわろうものなら、“国賊”よばわりされて一刀両断にされる恐れが多分にある。卯三郎はこいつはヤバイというわけで、夜陰に乗じて二人を田舎落ちさせ・・・」(p214)といった具合。断然後者の方が読みやすくて面白い。

 『幕末維新パリ見聞記』に収められている二つのドキュメントも対照的。成島柳北「航西日乗」は文字どおり日記で、出発からフランス、イタリア、イギリスなどを周遊しニューヨークに渡るまでを日々を追って記述しており、内容的にも、視察か何か知りませんが、日本人の仲間と飲み食いし遊んでばかりで、出かけるといえば我々が行くような名所ばかりを見学していて、完璧なおのぼりさん観光記になっています。それに対して、栗本鋤雲「暁窓追録」は、旅を終えてから全体を俯瞰して、フランスの社会制度や風物、人物などを、いろんな項目に分類して論評的に紹介しています。


 『幕末維新パリ見聞記』の「航西日乗」では、次のような点が目につきました。
①海外に出かけるのに、家族にも何も言わずに出て行って、1週間ほどもして香港から手紙を書いて知らせるというのは、どんな事情があったのか知りませんが、現代ではとうてい考えられない行状。男尊女卑が垣間見える。
スエズ運河が開通(1869年)したばかりで、蘇士新航渠という呼び名で出てくる。丸二日かけて通り抜けている。
③ところどころに漢詩を書きつけていて、面白いフレーズ「書在筐中酒在瓶(書は筐中に在り、酒は瓶に在り)」(p14)、「笑殺売猴人似猴(笑殺す、猴を売る人、猴に似たるを)」(p24)があった。
④さかんに中国の故事を引用しながら感慨を記していたりするが、結局、中国の素養がヨーロッパに置き代ろうとしているだけのこととも言える。
⑤パリで、知り合いの宿に行ったり来たり、不在でがっかりしたりしているが、この雰囲気は学生時代友人らと下宿を行き来していたころを思い出す。
⑥娼家へ行ったことを平然と書きつけている。「酔に乗じて安暮阿須(アンボアス)街の娼楼に遊ぶ」(p48)、「帰途エマ氏をホンテーヌ十三号の家に訪ふ」(p81)、「夜、同行と希臘人イダの家を訪ふ」(p112)。
⑦かなりのヒアリングの悪さで外国語をデタラメのカタカナの記述に直している。私も安心した。例えばビアサモルコー(p91)はPiazza San Marcoサンマルコ広場)のこと。


 「暁窓追録」では、
①西洋の近代諸制度を、福沢諭吉のように、熱心に勉強しようとしている。法律、裁判、弁護士、警察、牢獄など社会の秩序、下水道、都市計画、電信網、鉄道など社会基盤(インフラ)、病院、学校、障害者対策など福祉教育、貨幣価値、特産品など経済の仕組み、それに政治情勢に関することなど。死体公示所まで見学している。
②スイスについて「山水極めて秀美、瀑布あり、雪嶺あり、樹木交樾、他州其比を不見」(p167)と書いているが、高橋邦太郎によれば、栗本はヨーロッパの山岳を最初に登山した日本人だそうである。


 『花のパリへ少年使節』では、
①1867年のパリ万博で日本から幕府と薩摩藩が別々に出品したのは、薩摩藩の意向を汲んだフランスのモンブラン伯爵の悪知恵によるものであることを知った。薩摩藩の旗を掲げて「琉球国」を名乗ったり、「薩摩琉球国勲章」を造り皇帝をはじめ要職に贈ったり、また晩餐会で幕府実務者代表の田辺がシャンパンを飲みすぎて羽目をはずし醜聞になったのもモンブランの策謀らしい。
佐賀藩が陶器を大量に出品したが、汽船に積み込まれる前に、はやくも520箱のうち20箱が割れている。
③その佐賀藩の事務を担当していた野中がマルセイユからパリの車中で発病しパリに着くなり死んでしまったのは悲しい。ペール・ラシェーズの墓地に葬られたという。いま読み始めた宮岡謙二『死面列伝』ではパリ客死第一号ということになっている。
④万博開会式の一つとして行われた大賞典競馬レースで、ナポレオン三世ロシア皇帝アレクサンドル二世との間で10万フランの巨額な賭が行なわれロシア皇帝が勝ったこと。日本の侍たちはあっけに取られたらしい。
⑤昭武がパリのチュイルリー宮殿で皇帝ナポレオン三世に謁して新年の賀詞を述べている頃、日本では鳥羽伏見の戦い幕府軍が負けていた。
⑥民間人として参加した江戸商人卯三郎は、展示品の手配をしただけでなく、柳橋芸者を連れて行きお茶屋までしつらえたこと。またおみやげとして印刷機械、陶器着色法、鉱物見本、西洋花火などを持ち帰った開明の人であったこと、また時代にさきがけて国語・国字問題に取り組み、言文一致を主張したひらがな論者であったらしい。
⑦随員として参加した渋沢篤太夫(栄一)は、幕府が倒れた後、昭武一行や留学生の帰国、万博出品物の残務整理を任されたが、この時の事務処理やそれで得た経済金融に関する知識が後の日本での活躍のもとになった。
⑧富田仁による解説がついているが、奇妙なことに著者が本文で書いているのと同じことを平然と書いている。本文を読んでいないようで失礼千万。