:文久二年の遣欧使節に関する本二冊

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芳賀徹『大君の使節―幕末日本人の西欧体験』(中公新書 1968年)
宮永孝『文久二年のヨーロッパ報告』(新潮社 1989年)


 しばらく日本人の海外体験、とくにヨーロッパ、フランス体験の本を読んでいきたいと思います。上記の本は2冊とも文久二年(1862)の遣欧使節について書かれています。両書とも、使節一行の日誌やヨーロッパでの新聞報道、外交文書などを読みこんで、旅の様子を再現しようとしていますが、明らかに違いがあり、私の好みから言うと『大君の使節』に軍配をあげたい。

 というのは、『文久二年のヨーロッパ報告』のほうが分量が倍近くあり、メンバーの日誌等を克明に読み込んで、詳細な旅程を再現しているのが特徴ですが、細かな事実にこだわりすぎてメリハリに欠けるところがあるからです。『大君の使節』は、使節団の日本史的位置づけと同時に、各国の様々な思惑による複雑な対日の動きを追った世界史的視野があり、全容を立体的に浮かび上がらせていること。また例えば、福沢の抜け目なさ、市川の感情過多ぶりというように、日誌からメンバー一人一人の性格の差を読み取って、ドラマのような動きを描いていること。それに、どこか美文調の名残りの息づかいがあり、思いが伝わる文章になっているところです。

 『大君の使節』では、二つの大きな視点を感じました。ひとつはこの使節団が日本の近代化に与えた影響の大きさについてで、帰国後国内情勢の変化で報告がうやむやのうちに葬り去られ、幕府の政策に反映されることはなかったものの、メンバー一人一人のその後の活動が日本の将来に寄与したと指摘しています。とくに福沢諭吉は、他のメンバーが目前の細かい事実にかかずらわっている間に、その細部を関係づけ動かしている全体の仕組み、すなわち西洋の近代制度に着目し、それを吸収して『西洋事情』他の著作として刊行したことで、明治以降の日本に大きな影響を与えたということ。もうひとつは、日仏比較文学の専門家らしく、フランス人の日本理解に果した役割に思いをはせていることです。その代表が日本の古典の仏訳で知られるジュディット・ゴーチェへの影響で、ロンドンの万国博でかれらの姿を見たことがきっかけで、日本文化への興味が湧いたと言います。


 両書を読んで、共通して感じたことを羅列してみますと、
①日本からいろんなものを持っていこうとしたこと。鞍や鐙などの馬具、行灯、食器、火鉢、それに白米、醬油、漬物などの食料品で、味噌は船内で腐りあまりに臭いので瓶ごと海中に投じたという。
②産業や工場はもとより、病院や障害者施設の見学に時間を割いていることが分かる。
③いろんな出会いがあったこと。ナダールに写真を撮ってもらったりしている。
④意外と外国に日本人がいたのである。シンガポールで会った音吉、ロシアの日本接遇に力を貸した橘耕斎。
⑤船が港に出入りするたびに、祝砲が打ち鳴らされていること。気の毒なのは、彼らの乗った船で祝砲を打とうとして事故が起こり、船員一名が死亡、一名が片手をなくしたこと。
⑥メンバーみんながやたらと煙草を吸っていること。「タバコが吸えないと、すぐ退出するので、オランダの婦人たちはサロンでタバコをくゆらすことを許している」(『文久二年のヨーロッパ報告』p167)という記述があったが、すでにサロンでは禁煙だったということか。
⑦ハーグ市内に艾(もぐさ)を売る店があり、「大坂農人橋北詰 近江屋幸右衛門製」と書いてあったのは江戸時代でも貿易が行われていたことを示している。
⑧若い随行員でも漢詩を日誌に書きつけていて、漢詩が日常的だったことが分かる。今の俳句のようなものか。
⑨今から考えると、大小の刀を差して町をうろうろしていたのは奇異。
⑩ロシアとの国境交渉がひとつの大きな任務になっていたが、ロシア側の48度線の線引きの提案をその場で判断できずに保留にしたらしい。そのとき受け容れていれば近年の交渉に少しは有利になっていたのにと残念。
⑪ヨーロッパの人たちが、日本人の美的感覚の洗練と伝統主義的な見識の高さに驚いた様子を海外の新聞が報じていたり、日本の使節たちが、西欧諸国によるアジア・アフリカの植民地化やエジプト専制下の極端な不平等を見て、こうはなるまいと感じたということからすると、徳川時代に今日の日本の礎がすでに築かれていたことが分かる。