:人魚と河童の本

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笠間良彦『人魚の系譜―愛しき海の住人たち』(五月書房 1999年)
大野桂『河童の研究』(三一書房 1994年)

                                   
 読んだ順番。人魚も河童も水の中に棲息する生き物であることと、両者とも実在しないが一時期実在するものとして扱われていたことがあり、また怪しげなミイラが現存するのが共通しています。ミイラだけが吹聴されるということは、誰も生け捕りにしたことがないという証拠でもあります。

 『人魚の系譜』は、いまなお世界各地で目撃されたり化石が発見されたりしている報告から始まるので、おやっと思ってしまいました。著者は人魚の実在を完全に否定してはいないようです。また、地域別に人魚の文献を羅列して紹介していくという叙述がやや平板な印象を与えています。

 いくつかの面白い指摘があって、人魚は女性であることが多く、上半身が女性で下半身は魚というパターンが多いこと、それで著者は女性の魅力は上半身にあり、下半身は現実的過ぎて痛ましさを感じさせるからだろうと推測しています。たしかに、マルグリットが描いた『共同のつくりもの』という絵が添えられていて、それは上半身が魚で下半身が人間ですが、どたっとした動きのない物体のような印象です。人魚が男の場合は、フロッグ・マン(蛙男)や河童のような海人間として現れるようです。また人魚に間違われやすい生物として、鮫、ジュゴン、海牛、アザラシ、オットセイ、アシカ、最後に海女を挙げていました。

 その他、古代の中国ではロマンチックな話はあまりなく、人魚というと山椒魚を指し、食用や燭用油の実用的な対象として考えられていたこと。日本では江戸時代に、人魚の骨という触れ込みの輸入品の薬が珍重されたとのこと。ところが珍重されるといつの世でも偽物が流行するという、一角獣の角と同様のケースが起きたようです。中国も日本も近代になって、ヨーロッパからの輸入知識が混じってきて、西洋風の人魚が登場してきました。

 この本の特徴は、最後に、人魚から離れて、海宮や龍宮について一章を設けていることです。そこで展開されている著者の自論は、アイヌや沖縄民族のような入れ墨をした先住の海洋民族(わたつみ族)がいた日本に、天孫降臨というロマンチックな表現で侵入し、先住のわたつみ族を征服し服従させたのが大和王朝だとしているところです。わたつみ族の神々は虐げられた名前をつけられて、日本の神話に姿を留めていると言います。


 『河童の研究』のほうが『人魚の系譜』に比べて、ずいぶん面白かったのは、河童が持っている性格のせいもあるでしょうが、『河童の研究』の著者の大野桂という人が放送作家で、落語や漫才の台本を書いているということにもよるのでしょう。

 日本各地での河童の異名の多さ、河童の起源についての諸説の紹介から始まり、河童の属性、河童の姿の時代による変化、河童画家、河童が登場する文芸作品、演芸の紹介など、話題は多岐にわたっています。

 河童の起源については、①神格化された名工が困難な工事を人形を使って完成後、用ずみの人形が川へ捨てられたのが河童になったという人形化生説、②その話の背後にほの見えるのは、伝説の名工にこき使われる治水・土木の川の民が河童となるという「非人」起源説、③中国黄河上流の河童の一族が球磨川河口に大挙上陸したという中国渡来説、九千匹もいて族長は九千坊(くせんぼう)と名乗ったという、④平家の武士は甲羅に怒りの形相をとどめた平家蟹となる一方、女官たちは河童と化して全国の海や川に棲みついたという平家女官変身説、が紹介されています。

 河童の属性として面白いのは、やたらと相撲を取りたがること、また、河童の腕は左右で一本につながっているので片方を引っ張ると両腕が抜けるという不思議な構造をしていること(これはもとが藁人形だったことに由来するという)、当事者だけに姿が見えて周りの人に河童の姿が見えないので河童と戦っている者は気が違っているように見えるという現象、すぐに謝り侘び証文を書いたりすること、しかもその誓いをどんな状況においても守ろうとすること。なかでも重要なのは、他の幻獣には見られない滑稽さを醸しだしている頭の上の皿で、濡れていると力百倍、乾くと途端に元気が失せるという二重性、両義性を指摘したところでしょうか。

 また「尻子玉を抜く」とよく言われる表現について、生理学的に尻子玉に該当する部分がないと困惑を表明した後、水死者の肛門が開いているところから、河童に尻子玉を抜かれたという発想につながったと推測しています。また水中で尻子玉を抜かれる瞬間抜かれた者が笑うという言い伝えを紹介し、死の恍惚感が人を笑わせるのか、それとも苦悶の表情が法悦の表情に見えるのかと、バタイユ風の設問を投げかけています。

 河童の絵姿については、河童が世の中を賑わすようになった江戸時代当初は、学問的な議論のなかで河童図が描かれ、甲羅のない「猿・カワウソ系」と、甲羅のある「亀・スッポン系」の二系統があったことが示されていました。その後浮世絵ではいろんな姿態が描かれるようになり、明治になって小川芋銭が河童を自然な生きものとして描き妖怪趣味から解きはなち、昭和になると清水崑描く女河童あたりから人間的な存在となり、人気者になってかっぱブームが巻き起こります。崑かっぱは甲羅を小さく描くことによって人間化に成功しており、それを受け継いだ小島功の女かっぱの甲羅はさらに細くなっていよいよ女らしさを発揮することになったとしています。

 河童はもともと妖怪性の希薄な存在ですが、著者は近年とくに妖怪が魔性を失ってきたことを指摘し、阿部主計の言葉を引用しながら、その原因が、都会人が妖怪を信じない一方、刺激を求めようという心から、怪異を弄び娯楽化することにあると言っています。現代人の恐れ(畏れ)は別のものに移っていったんでしょうね。

 文芸に現れた河童として印象に残ったのは、泉鏡花の「貝の穴に河童のいる事」、村上元三「河童役者」、唐十郎「河童」。演劇では、河童が狸と相撲を取り行司役が傘の一本足という歌舞伎「闇梅百物語」、戦時中の作品で、不良の河童が真の愛国心に目覚め、勝って来るぞと勇ましく、米英艦隊の尻子玉を抜きに出陣するという新劇「日本の河童」。