:Marcel Béalu『Contes du demi-sommeil』(マルセル・ベアリュ『微睡物語集』)


Marcel Béalu『Contes du demi-sommeil』(Phébus 1979年)
                                   
 以前読んだ高野優訳『奇想遍歴』(パロル舎 1998年)の元本。翻訳のある本は原則読まないことにしていますが、訳本に含まれていない作品が19篇あるのとのことなので、ついでに全体を読んでみました。翻訳本については、2013年8月29日記事参照http://d.hatena.ne.jp/ikoma-san-jin/20130829/1377741189

 原文を読んだ後、翻訳を参照してみて、細かいところで正確な読解ができていず、時にはまったく逆の意味に取っていたと知らされ、愕然とすることしばし。それにしても、高野優氏の微妙なニュアンスをも掬い取るような懇切丁寧な訳しぶりを見て、さすがプロは違うと感嘆しました。

 今回あらためて読んでみると、前回翻訳で読んだ時と、面白さの評価が変化していることが分かりますが、それは原文で読んだせいか、この間趣味が少し変わったのか。それとも評価というものはその時々の気分で大きく変わるということなのか。例えば、前回○だけだった「三人の配達人」「照明の方法」「死体の利用法」「毛羽立ての精の出現」が◎に、逆に前回◎だった「空飛ぶ町」「メッセンジャー」「エドゥアールの鏡」が○に、という具合。

 各篇それぞれに読後不思議な味わいが残ります。そこはかとない諧謔と悲しみが漂い、ちょっぴり世の中に対する皮肉まじりの批判的視点が感じられます。男と女の性別のすれ違いを男の立場から嗤ったテーマが結構目につきます。頭で考えた理念的な物語であっても、読み返すたびに魅力が増していくのは、具体的な細部に魅力があるからでしょう。

 前回読んだJ.M.A.Paroutaud『Le Pays des Eaux』と同様、これら諸短篇も、未知の国の風習を伝える都市見聞譚の一種と考えられるでしょう。いくつかの短篇は連作のようになって一つの都市の様子を描いているとも言えます。

 ベアリュの作品のジャンルを考えた場合、例えば「Les pains à cacheter(パン糊)」に描かれている「空に浮かんだ家が月という空に開いた穴を通って向うの世界へ行く」というような情景はSF的であるけれどもScienceは存在しないし、かといってファンタジーかというと、昨今のファンタジーはどうやら神話的英雄譚的な物語をさすようなので該当せず、また奇妙な味の小説と言えば、私の印象ではアメリカ的な現代社会を舞台にしたミステリー短篇のイメージが濃いので、結局カフカ的短篇とでもしか言いようがありません。

 一篇ずつを二行程度に要約しているうち、要約文にも味わいが残ることに気づき、短縮散文詩という新たなジャンルができないかと、ふと思ってみました。例えば次のような作品:この夜市の見世物はごまかしがない。「当たるよ」の呼び声どおり射的は当たるし、迷路は抜け出せず、幽霊も本物だ。客がハンマーで潰される小屋では、知らぬ間に呼び声は「死ぬよ」と変っていた。


 未訳だった19篇を簡単に紹介しておきます(いい加減なので雰囲気程度で受けとめてください)。
Entrente tacite(暗黙の協定):町が毎夜のように変質を続け、通りの名が変わったり、人びとの職業も移ったりしていた。これらの職業は見せかけのものだ。誰も本当の職業は言わない。それが暗黙の協定だ。

Jours en folie(狂った日々):物事が自由になって、世の中が大混乱。意外なものが出会ったり、あり得ないことが起こったりと、シュールレアリスティックな光景が延々と描写される。

L’ange du désoeuvrement(不機嫌な天使):夜7時に商人たちは売り上げを数える。が不機嫌な天使のせいで混乱は必定だ。皆熱に浮かされたように急げ!と喚く。老婆は金勘定を終えない間に、体の奥の急げ!という死神の声を聞く。

Présence du bonheur(幸せの存在):幸せは不意とやってくる。何気ない日常のなかに。今あるのは隠された無数の世界のうち偶然表面に浮かび上がったもの。毎秒目くるめく世界が生まれ、そこに突然幸せがあるのだ。

◎Conservatoire des métiers(職業展示館):札勘定機の指を持つ会計係など機能に特化し変形した職業人の展示館。親は子どもを連れてきて忍耐が必要と教える。だが少しの風でも風見鶏のように反応する男など今は廃れてどんな仕事だったか分からないのもある。

○Cris à vendre(叫び声売ってます):小さな袋に詰め様々な種類の叫び声を売っている。上等のは500フランする。安物はダースで。が近年値が下がるにつれ質が落ち、かつての声は聴けなくなった。終いには動物の声になるだろう。

◎Ilya Maldonne(何てこった夫人):何か騒ぎだと何てこった夫人が駆けつけると、無頓着氏、何もないさ氏、事なかれ氏ら知人が取り巻く中で、沖合氏が息子と口論。まわりも大混乱。死人が出たりするなか、矛盾氏、純粋理性氏、多分嬢、皆こうなる夫人らまだいるぞ。)→言葉遊びの極

Le camelot(露天商):鉄、石、火、楯、眉櫛の時代を経て今は露天商の時代。足元が黄昏に消えるかに見えるのは幻想で下から雲が湧いているだけ。周りの喧噪が止むと彼の大声は蒼穹の中に鳥の囀りのように消える。

Filles de la lune(月の娘たち):月から卵の殻に乗ってきた二人の娘。鐘の町から来たので鐘という名のカビ臭い娘と、スイカという丸々とした美人。なぜスイカかと言えば、スカートの下にスイカ模様のパンツを穿いていたから。

○La foire aux fiancées(婚姻市場):年に一回開かれる婚姻市では、まず飾り女、ベッド女、仕事女、子産み女に分けられ、それぞれ12に細分化される。この48についてさらに生理学的に12分類すると都合576の種類。これ以外にも誕生星や生態学などで無数に分けられる。一夫多妻制になっても選択に困ることはないだろう。

Sculpteurs d’ombre(影の彫刻家):耳の後ろにぐりぐりのある子。幼時は隠せても大きくなり、本人の倍ぐらいになる。手術に踏切っても大概は失敗し灰色の部分が残るので、まわりは気遣って「影の彫刻家」と呼ぶ。

Le pays des Élusines(エリュジーヌの国):エリュジーヌの国の女性たちに気に入られる才能は彼女らの美しい笑みに応えることで身につくのだ。愛する振りだけしてそれ以上要求しなければ、彼女らはとても魅力的な存在となる。

Dénomination des Élusines(エリュジーヌの名前):エリュジーヌにはオンディーヌやゾエなどいろんな名前がある。頭にMをつけるとメリュジーヌとなる。似たもの同士が同じ名前を付けているので、一人と別れても同じ名前のエリュジーヌで代替が効く。新しくて同じというのは素晴らしい。想い出を見つける喜びは当時の喜びに勝る。

○Fleur parlante(喋る花):エリュジーヌたちが喋っているのを聞くとイントネーションの変化が目まぐるしい。一つの口でこんな変化は無理だ。腹話術だと思ったが腹の中で花が喋っているということが分かった。誰かが真似しようとてもつい誇張してしまうので、騙されるのは初心者だけだ。

Face d’Encoché(アンコシェの顔):アンコシェはバネのような形をして緩みながら行く手に現れたものを情け容赦なく分断する。父と子、夫と妻、双子を。彼に触れたものは棒立ちになって燃える。アンコシェは廃墟のなかに聳え立ち、休むなと叫ぶ。その顔は拳のような大きさだが、死者の崩れた顔だ。

◎pariade(交尾):男女の性の営みを動物の交尾に擬して描いた作品(だと思う)。私の力では要約不能の凝縮した散文詩。意味がよく分らないが凄さだけはひしひしと感じられる。

◎Les pains à cacheter(パン糊):少し長めの作品。地下の部屋に封筒用のパン糊をみつけた男はそれを使って幾何模様を作って遊んでいた。そこに丸々とした女が入って来たので、パン糊で装飾品を造って女を飾る。パン糊をつけると軽くなることを発見した男は部屋中に塗って家を浮かばせることを考えるが・・・。

○De la femme peintre(女流画家の鏡):描こうとすると物が逃げていくので、鏡に映った自分の顔を描こうとする女流画家。がどうしてもうまく描けないので、鏡の上に直接描こうとし、最後には自分の顔の上に直接自分の顔を描く奥義に達する。人びとは「白塗り仮面だ」「真の絵画だ」と言いあうが、誰も無関心な顔の奥に静かな魂があるのを知らない。

◎De Celle que j’aime(私の愛する女性の鏡):とても美しい14行詩。「どうすれば鏡に住む女性と合流できるのか。記憶のない影となって、黒鳥が護る孤独の城へ忍び込もう。さざ波を立てず、沈黙を守って。そのためには夜となり、どこから来たかを忘れなければ」と煩悶する心を歌っている(ようだ)。


 ベアリュが開いていた古本屋の店名「le pont traversé(渡られた橋)」という言葉が出てきました(p63)。これはベアリュの「Le Pont(橋)」(『Mémoires de l’ombre(影の回想)』所収)にも出ていました。よほど気に入っていたと見えます。