:江上波夫、松田壽男、杉山二郎の鼎談二冊

///
江上波夫/松田壽男/杉山二郎『攻めの文明・守りの文明』(六興出版 1979年)
江上波夫/松田壽男/杉山二郎『世界史の新視点―学問・略奪・探険』(六興出版 1981年)

                                   
 学生のころ、江上波夫の日本騎馬民族説というのは有名でしたが、どこかハッタリめいた風評があって読まないまま過ぎました。今回読んでみてとてもダイナミックで面白い説だと感じ入りました。江上波夫は座談でその妙味が発揮されるタイプの学者ではないでしょうか。杉山二郎が『世界史の視点』「あとがき」で「わたくしたちの鼎談の企図の淵源は、わたくしの江上先生との出逢い、座談の楽しさを同資質な人びとに分ちたい、といった個人的な贅沢な願望に基いている」(p295)と書いているのは同感。松田氏の発言がきわめて少ないのが気の毒なくらいです。

 読んでいて面白いのは、話があちこち飛んで、いろんなものが無尽蔵に出てくるところ。それに座談の言葉にあまり手を加えていないようで、歴史的な人物に対しても「そいつ」とか「やつ」とか日常語丸出しで臨場感があり、また少々意味が取りにくいところもあるぐらい言葉が断片的なままです。なので後で手を加えた部分はそこだけが妙に整った硬い文章になっていて丸分かり。
 
 『攻めの文明・守りの文明』の話題の中心はやはり遊牧民型と農耕民型の比較で、杉山二郎の本でも触れたことですが、だいたい次のようなものです。
①古代史を見ると、遊牧民型の攻めの文明と農耕民型の守りの文明の二つが見て取れる。前者は自然や他地域の人間を消費し略奪し、後者はそれを保護育成しようとする。
②バイキングなども海の牧民ともいうべき存在。日本でも、海辺部の漁撈民と内奥平野部の農耕民とが含水炭素と蛋白質の交換により共存する構図が描ける。
遊牧民型は草のあるところを食いつくしながら移動するので蓄積せず、農耕民型は土地に定着するので蓄積する。金持の農耕民型社会を貧した遊牧民が乗っ取る形で社会が作られ都市ができ帝国が生まれる。
遊牧民は農耕民から土地を取らず農耕を続けさせながら人頭税を取る。農耕民は自給自足で好奇心がなくローカルな存在、それに反して遊牧民は絶えず情報を収集して将来の戦争に備え、インターナショナルな存在。
⑤この牧民的性格は、個人主義自由主義植民地主義、科学精神を生みだした元であり、人間の欲望を無限に拡大し取り入れようとした。地中海世界は農耕的で、イタリア・ルネッサンスでは文芸復興どまりだったのに対し、牧民的なゲルマン社会が宗教改革を通して近代を作っていった。
⑥自分では生産せず敵に生産させるのが遊牧社会。現代でもその構図は同じで、奴隷に代わって機械に働かせ自分たちはサラリーと称して上前だけをはねている。そしてそのもとは自然が与えてくれるものをタダ取りしているので、なくなったら終わり。それを科学的であり進歩的であるという風に思っている。


 『世界史の新視点』では、すでに杉山二郎の本で読んだ話が半分ぐらいありましたが、大きなテーマは次のようなところでしょうか。
東西の交通路に関する話題:
①東西の交通路には北のステップロード、中央のシルク・ロード、南海ロードの三つがある。シルク・ロードを過大評価しすぎで、シルク・ロードは貴重品を運んだり仏教が伝わったりした道だが、かなりの物質文明は中国船とアラビア船による南のルートで運ばれている。またシルク・ロードの沿線都市は通り道になっただけだったが、ステップロードは民族が動くことにより、そのエリアの衣食住、武器、馬具などすべてが変わった。
②ヨーロッパ側地中海からすると、三つのルートのいずれも全部イスタンブールに結ぶことになり、そこはトルコが押さえていた。
大航海時代ヨーロッパからアジアへ向かって行こうとしたのは、喜望峰を回るルート、逆に向かう西ルート以外に、北から行こうとしたのがある。ロンドンからアフガニスタンまで川を使えば船で行けた。イギリスがインドを植民地にして以降、ロシアと意外に近くなり、紅茶と毛皮を売り買いする英国ロシア商会がたくさんできた。


学問のあり方に関する話題:これは身につまされるものがあるのか、三人とも力が入っています。
①西洋優越史観というのがある。美術様式論では、アロイス・リーグルは優越史で地中海世界を中心に置いているが、それに対してストルツィゴウスキーは文明起源や美術様式の起源をイラン人、スラヴ人と考えた。
②中国の学問は百科全書的で博物的だが、そのかわり哲学がない。西洋は細分化した分、これをまとめる役割が必要で、それが哲学。ヨーロッパでは音楽でも指揮者というものを別に作ってしまう。
③歴史や考古学を考える場合、記録や出土品は一部分しか残っていないものなので、それだけを見て全体を判断してはいけないということ。例えばある音楽家が手紙で必ず金の無心をしているからといって、その音楽家が年中貧乏だったわけではない。手紙というのは困っている時にしか書かないのだ。
④学者は知らないことを勉強するのであって、初めからすべてを知っているわけではない。自分の分からないこと、自説と矛盾することに出会ったとき、それをないことにしてはいけない。
⑤日本の学者は働くかわりに勉強する。それで勉強というのは働きだと思っている。遊びで勉強することをしらない。


戦争と武具に関する話題:
①馬は車をつけられて、後からひっぱたかれれば、前に走る。だから戦車は、馬を調教しなくても使える。だが戦車は平地でしか使えなかった。轡をはめ馬を調教するようになって初めて山坂でも行けるようになった。
②鎧を着られると矢は貫通しない。馬まで鎧を着られたらどうにもならない。それでこちらも重装備して槍を持ってぶつかって行く。それで洋鞍ができて槍騎兵という形になる。
③斬るものとしては鉄がいいが、刺すものとしては銅で間に合う。縞をつくって分厚くすると相手にダメージを与え鉄にまねのできない威力が得られた。
④どんなに戦術が優れていても軍備が古いとだめだ。軍備には金をかけないといけないということだ。


 二冊を通じて、細かいエピソードで面白く、また印象に残ったのは、
①杉山二郎が関西の学者と三日間放談して以来、ほら吹きの名人として、西の梅原猛と並ぶ東の横綱とされたこと。
イスラムが豚を禁じているのは、豚が草を食べないことから牧畜民が飼わずにいて、食わず嫌いになったのが原因。またイスラムが断食するのは、遊牧民が飢饉に備えてする訓練の意味がある。
遊牧民が塀を作るのは、泥棒するのと同じこと。
④主食になる条件としては、持ちがよく、保存が簡単で、非常にたくさんできること。穀物がいちばんで、次に候補になるのは芋。家畜がいいのは、生きたまま保存できて必要なとき殺せばいいのと、担ぐ必要がなく自分で歩くこと。穀物が大変なのは輸送。
アッシリアの彫刻からすでに獅子舞いがいる。
(以上、『攻めの文明・守りの文明』)
水稲農耕では精力を農耕にとられてしまうので、農耕民は金銀財宝で身を飾ったりしなくなる。奈良朝になると、飾り立てるのは仏様だけになった。
⑦大きな領域国家の利点は域内の経済が活発になること、もう一つは外に対する防衛費がいらなくなること。遊牧民が帝国を作ろうとしたのはそうした利益と結びつくから。商売も軍事も利益に結びついている。
⑧蒙古がヨーロッパの近辺にまで押し寄せたことが、逆に大航海時代にアジアへ向かうきっかけとなった。
⑨ジェスイットの宣教師が東西交渉史に果した役割は大きく、バイキング的な特色を持っていた。
(以上、『世界史の新視点』)


 いろんな大胆な説が披露されていましたが、現在の学問の先端ではこういう説に対してどういう評価がなされているのか知りたいと思いました。