:Maurice Renard『Le Docteur Lerne, sous-dieu』(モーリス・ルナール『神人レルヌ博士』)


                                   
Maurice Renard『Le Docteur Lerne, sous-dieu』(Corti 2010年)

                                   
 4年前パリのジベール・ジョゼフで買った本。モーリス・ルナールを読むのはこれで6冊目です。この作品は、ルナールの処女長篇で出世作となったものです。冒頭の1ページにわたるH・G・ウェルズへの献呈の辞は、どうやら、ウェルズの天才に傾倒するあまりにこの作品を書いたというようなことが書いてあるみたいでしたが、さっぱり分からず、自信喪失してしまいました。

 マッドドクターが登場する偽科学もので、SFとミステリーの中間を行くような作風です。しかしある程度謎が予測できるような話の運び方で見え見えなのに、「どんな謎が」ともって回った台詞が出てくるあたり、まだミステリーやSFの小説の技巧がまだ萌芽期にあることを思わせます。


 ストーリーは次のようなものです。私の能力では細かい伏線や描写も端折らざるを得ないので、作品の味わいが削がれてしまいますが、およその雰囲気を想像してください(ネタバレ注意)。
主人公ニコラが、今は亡き母親の里に住む叔父のところへ遊びに行く。叔父レルヌ博士は4年前から態度が豹変して、昔の優しさがなくなりつっけんどんになっていた。家のまわりを柵で囲い、道を迷路にして人を遠ざけ、ドイツ人の助手3人と怪しげな実験に熱中しているようだ。叔父から実験は秘密だから絶対に覗かないようにと言い渡される。昔使っていた部屋に泊まれると思っていたらそこはふさがっていると言う。また館にはなぜか蠱惑的な若い女性エンマが住んでいて、叔父から手を出すなと言われるが、ニコラは夢中になってしまう。壁に飾ってある写真には、叔父と共同研究者のクロッツ博士、それにドイツ人助手3人ともう一人犬を連れたスコットランドの青年が写っていた。

ある日、入ることを禁じられていた温室の扉が開いていたので中を覗くと、ありとあらゆる種類の花木を集めた豪華な植物園だったが、異種の接ぎ木による珍妙な植物がいっぱいで、さらには動物の体の一部を移植したものまであった。ある夜、自分の昔の部屋の窓に写真で見た犬がかじりついているのを見る。中から犬の鳴き声を真似したような声が聞こえてきた。ふさがっていると言ったのはこの狂人のような男のことか。ニコラは策略を講じて、レルヌ博士の留守の間にその部屋を覗くと、扉の隙から狂人が外へ逃げだし、ある場所まで行くと犬のような仕草で埋められた靴を掘りあてた。ニコラは慌てて狂人を連れ帰る。

すると、エンマもまた狂人の部屋を訪れようとしていたので、事情を聞くと、狂人はあのスコットランド人の青年だと言う。エンマは叔父が勤めていた大学病院へ入院したのがきっかけで叔父と一緒に館に住むことになった女性で、スコットランド人の青年がエンマと密会していたのを叔父が咎めて、青年を実験室へ連れて行って以来おかしくなってしまったらしい。ニコラは正直に叔父に話をしてエンマと二人で逃げようとする。叔父は狂人を親元へ帰すことを約束し、まもなく実験が完成する、すべての謎はその時明らかになるからもう少し待てと言う。

狂人が親元に引き取られた日、ニコラは犬が掘り出した靴が気になって行ってみると、靴には身体がついていて、何とクロッツ博士が埋められていたのだ。恐ろしさを感じたニコラはエンマの部屋に飛び込んで一緒に逃げようとするが、時すでに遅し、そこには叔父が待ち構えていた。助手3人に拘束され実験室へ連れて行かれる。そこでニコラは脳を牛の脳と交換する手術を受ける。牛になったニコラに、レルヌ博士は、若さや永遠の生を目的とした脳の移植が実験の目的だと告げる。そしてニコラ脳の牛は牧場に放たれ、牛脳のニコラは庭の東屋に閉じ込められた。

エンマを見て欲情し襲い掛かった牛脳のニコラをニコラ脳の牛がメッタ突きにし、脳に傷を負わせる。将来ニコラの身体に乗り移ろうと目論んでいたレルヌ博士は、お前は自殺をしようとしたんだぞと言いながらニコラの脳を元の身体に戻した。レルヌ博士が忘れたノートを見ると、手術をせずに脳に乗り移るテレパシーのような実験に邁進していることが判明する。そしてポプラに乗り移る実験を成功させたレルヌ博士だったが、ある日自動車を運転中に心臓麻痺で死んでしまう。通夜の席でレルヌ博士の頭を見たニコラは手術痕があるのに気づいた。そこで4年前に態度が豹変したことと思い合わせ、クロッツ博士は殺されたのではなく、クロッツがレルヌ博士に乗り移り不用になった身体を捨てたのだと思い当たった。

ニコラはこれでようやく解放されたと館を整理処分し、エンマと暮らそうと二人でパリへ向かって自動車に乗ったが、途中で制御できなくなってしまう。レルヌ=クロッツ博士は自動車にまで乗り移っていたのだった。

 最後に、自動車が生物のように腐敗し解体していく描写に続き、主人公ニコラの独白で終わりますが、どことなく曖昧なニュアンスが残って余韻を醸し出しています。最終的にクロッツの魂はどこへ消えたのか。本当に消滅したのか。ニコラの狂気じみた独白は、もしかしてクロッツの魂がニコラに宿ったのではとも感じさせられるようなところがあります。それともこの物語全体が、『ドグラ・マグラ』のように、すべてが主人公の狂気のなかの物語だったとも思わせるようなところもあります。それが考え過ぎだとしても、少なくともまだ3人のドイツ人助手が生き残っていて、同様の罪悪を犯す可能性があり、不気味な雰囲気が残ったままです。


 主人公が牛になってしまったり、博士の魂が自動車に乗り移ったりと、荒唐無稽な話ですが、そんなに馬鹿々々しくは感じさせないところが、筆力のなせる技だと言えます。車に魂が宿るテーマでは、スティーヴン・キングの『クリスティーン』があるのを思い出しました。また文中で『ファウスト』とウェルズの『モロー博士』に言及がありましたが、この作品の永遠の若さを得ようとするクロッツ博士の人物像は「ファウスト」から、動物を人間に変えるという発想は「モロー博士」を受け継いでいます。
 
 レルヌ=クロッツ博士が、「人類が死んだ後も車が跋扈する世の中が来るかもしれない」と言っていますが(p126)、車をロボットの一種と考えると、ロボットの反乱を予想したチャペック(1920年)より早いと思われます。

 日本との関連では、ニコラがエンマの足の爪を見て、日本の珊瑚に喩える場面が出てきました(p118)。
 
 一つ辻褄が合わないのは、4年も前に埋められたクロッツ博士の死体を顔で判別するというところ。4年もしたら顔では判別できないのでは。