:杉山二郎のオリエントの本二冊

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杉山二郎『西アジア南北記―沙漠の思想と造形』(瑠璃書房 1978年)
杉山二郎『オリエント考古美術誌―中東文化と日本』(NHKブックス 1981年)


 『西アジア南北記』は著者が昭和51年に東京大学イラク・イラン学術調査団の一員として参加した時「三彩」に連載された通信をまとめたもの。『オリエント考古美術誌』は昭和55年の西アジア調査にNHKが同行取材するに際して、NHKスタッフのために二日間特別講義をした内容をまとめたもの。講義をしたものの肝心の調査はイラン・イラク戦争が勃発したため中止になったらしい。


 『西アジア南北記』は:
 序章とⅥ章「イラン高原の最中にて」で西アジア史を概観し、少しは学術風の体裁を整えようとしていますが、全般的には、滞在した場所や遺跡の説明や、調査隊のテント生活や暮らしぶり、現地スタッフとの交流などを報告した紀行文となっています。僻地で生活するという高揚感が文章を浮いた感じにしているところがありました。王朝の変遷を綴ったところなどはカタカナの聞き慣れぬ固有名詞が頻出したせいかよく分らないまま読みました。著者自ら撮影した写真が多く掲載されているのが貴重。

 印象深かったのは、10年前にやはり調査で来た時と比べ、観光化が進んでいたり、美しい静雅な雰囲気がなくなったと著者が何度も慨嘆しているところ。同じく日本の江戸以降連綿と続いてきた文化や、かつて外国人が賞讃した清潔、正直、利発、礼儀正しい尊譲さといった美徳が、いまや片鱗も身辺に見出されないと、日本にまで及びます。この「文明が人間の堕落頽廃を招く」という考えにはたいへん共感しました。

 あと、イラン高原が信州や山陰山陽道の農村風景に似ていると感じたり、ハトラ北辺の壁に巨像のヘラクレスがあるのを北方守護神の毘沙門天と断じたりと、西アジアを中国や日本、インドと比較して考えているところ。また沙漠世界では白と黒が際立ち、その中間の多彩色層が生活のなかで欠落しているのを、人が味方か敵かにすぐ図式化してしまう人間関係と比較しているところ。

 驚いたのは、遠く西アジアの地に中国の龍が装飾として描かれていたこと。王侯貴族の衣装に葡萄唐草文の刺繡や万字崩し、植物文・幾何学文がちりばめられている様子。また調査成果を満載しフランスに送ろうとティグリス河を下っていた筏がアラブ人たちに襲われ沈められたという「クルナ事件」。現地のスタッフとの接し方では、ドイツなどヨーロッパの国が威厳と高圧により現地人を顎で使うやり方と、親愛優和さで同和しようとする日本のやり方を比較し、必ずしも日本のやり方が現地人に尊敬されていないと告白しているのは奇異に思われました。

 面白かったのは、現地で雇った人夫がみんな盗掘の経験者だという話。棍棒と弓矢を持ったヘラクレス像が同時に碗を持って酔態を演じている造形(これはバッカス神との習合だそう)。テヘランでも日本の桜見物のように、春から夏にかけて、カーペットにサモワール、弁当といった道具立てで、郊外に人びとが集まるということ。夜蒲団のなかで蚤に咬まれ、中国の山水画中の仙人も日常生活ではたいへんだったんじゃないかと憶測しにんまりするところ。


 『オリエント考古美術誌』は:
 第一編が旅行記のような作りで、いつもの杉山二郎らしい大胆な構想は影を潜めたと思っていたら、第二編から俄然スケールの大きな見取り図が展開して満足しました。中東、ユーラシアの古代文明を縦横に論じています。農耕のあり方と社会、石器・銅器・青銅器・鉄器文明の変遷、武器と戦争のあり方、鉄具と車馬文化、王の権威の発露、シルクロードの三つの道など。

 上記の論点をもう少し詳しく述べると、
①雨水に頼った小麦農耕に対して灌漑による稲作農耕というのは集約的な手間ひまがかかるもの。人びとは川下へ下りてきて沼沢を干拓して灌漑農耕を始める。干拓、灌漑には人力の共同が必要なので、次第に都市を形成することになった。灌漑施設には青銅農具が貢献した。
②石器は人間の手とか爪とかが発達した形態で、土器の文化というのは両のてのひらですくう形のてのひらの文化。露出している自然銅を石で剝ぎ取って銅器を鍛造したが、堅牢性、鏃の貫通力の強さでは、銅は石にかなわない。何とか堅いものをと鉱物を混ぜ合わせて鋳造して青銅ができる。この鋳造には火を使った土器の経験が生かされている。しかし青銅器も祭器であって、武力としてどれだけの力をもっていたのか。鉄器の武具が発明されて初めて武力帝国の勃興がはっきりしてくる。
③鉄器の出現は大量殺戮を生む方向に進んだ。ヒッタイト民族は当時の新兵器である騎馬軍団、馬車軍団を率いて王国を築いたが、鉄を武器、武具、車馬具に利用するテクノロジーをいっさい秘密にしていた。が結局それが相手方に伝わって駆逐されることになった。またアレクサンダーの東征がインドで難渋したのは象軍、ゲリラ戦法、足で引く弩の破壊力によるものだった。
④馬を乗りこなすには馬具が必要で、騎馬文化というのはそれに付帯する一種の馬具文化。馬に乗りながら相手を確実に斃すための一つのエポックとなったのは鐙で、鞍と轡だけでは軍事力としての意味あいを持たない。南米のインディオポルトガルが入ってきた時、飼育により人間が馬に乗れることを全く知らず想像もできなかったので、人間と馬が合体した怪物が襲ってきたと戦わずして逃げてしまった。ギリシアでも同じことがあったのが、ケンタウロスとして造形された。
⑤神権から王権へ移ったときに、統治者のヒエラルキーが複雑に発達し、都市文化がいっそうの展開を示した。王さまであるべき人間が、現世におけるあらゆる奢侈を一身に集め、民衆・大衆の持てない石を身の周りに置きたくなった。紫水晶とか準宝石が多いが他にも金銀着目した。金は色が変わらないというので、金を尊重するようになる。シュメールにおいて珍重された三種の神器は、日本の三種の神器と同じく、すべて舶来品だった。ヒエラルキーの頂点に立った王様は、現世の栄華だけでなく死後まで、この結構な生き方を続けたいと考える。中国の帝王も、アルタイ、ノイン・ウラの遊牧民酋長の墳墓も、みな同じ原理。
⑥東西を結ぶ道にはいろんな道がある。一つは北方の森林帯から草原帯に変る縁辺のステップ・ロード(草原の道)。シルクロード(絹の道)は稲作文化が東漸してきた「稲の道」でもあり、他の「薬の道」、「幻術の道」、「仏教東漸の道」と一連の現象の一つである。西のシルクロードアレキサンダー東征によって開かれた。この東征は一種のポリスの移動で、アレクサンドロスによって都市が石造化されるという西アジアの枠組ができていった。

 部分的に面白かった記述は、私の無知を暴露するようですが、
レバノン山脈麓の「犬の川」という渓谷の摩崖に、紀元前四千年以来ここを通過したネブカドネザルやカラカラ帝などの王や将軍たちが行動の足跡を銘文に刻んでいる(p34)。→修学旅行生がする落書きのようで面白い。
②「突然、曲がりくねった狭路の行く手が豁然として開かれ、二階建ての神殿正面が東面して、陽光に燦然と湧出した」とペトラの“ファラオの宝庫”が紹介されていたが(p75)、これは「レイダース」の舞台になったところだ。
③泥しかなかった大地が春の訪れとともに緑のビロードに覆われたようになり、3月末から4月初め、ありとあらゆる花がいちどに咲き、一週間足らずでパッと消えてまた土の色に戻ってしまう、という魔法のような描写(p120)。
④籠の内側に泥を塗って焼成すれば外側の繊維が焼け失せて、編目が模様として残る、これが日本の縄文土器のルーツ(p126)。→知らなんだ。
⑤古代人には、病気や不幸になるのは悪魔がどこかから見て取り憑いたりするからという邪視の考え方があり、邪視に魅入られないようにするためにペンダントを身につけた(p134)。→これも知らなんだ。