:MICHEL BERNARD『LA JEUNE SORCIÈRE』(ミシェル・ベルナール『若い魔女』)


                                   
MICHEL BERNARD『LA JEUNE SORCIÈRE』(DENOËL 1973年)

                                   
 生田耕作旧蔵書。著者名を知っていたのと、「魔女」という言葉に惹かれて買いました。

 冒頭はバタイユ『マダム・エドワルダ』を思わせるような夜の彷徨から始まります。主人公ジェロームは夜の徘徊のうちに、カフェで謎めいた女に誘われるままについて行き、とある家に入るが、女の謎めいた言葉に困惑して辞去する。何日か後、もう一度その家を訪れると、今度はすれ違った別の女から誘われ、版画が壁面を被っている部屋で愛を交わす。アリスというその女にはドロテという異母姉妹がおり時たまこの家を利用していると写真を見せられる。彼女が謎の女かもしれない。しばらくして主人公が休暇で行った先で偶然骨董屋から出てくるドロテを見かける。彼女は同じホテルにクリスという偽名を使って泊まっていたが、ホテルの女主人ソランジュから、そのクリスが辺鄙な村の女占い師のところに入り浸っているから何をしているか探ってほしいと依頼される。その村まで行き、知らない女がいると村人の噂で聞いた家の戸を開けると裸のドロテが主人公を待っていた。催眠状態になっている女占い師のいる部屋で、ドロテから、イメリンという女不動産屋とのミュンヘンでの打合せを取り消したことから夜の彷徨まで彼の素行をすべて掌握していると告げられる・・・(ここまでで三分の一ぐらい)。
 
 その後も、村からの帰りに海岸で少女がじっと見つめていたり、ホテルに戻ると女主人から誘惑されて悪夢を見たり、女主人とドロテ、イメリンがお互い知り合いだったことが判明したりし、最初に謎の女に連れて行かれた家にこっそり侵入すると、青い部屋だったのがベージュになっていたり、その後ドロテと会話するうちに謎の女が女占い師だと判明した(と思った)り、その女占い師が暖炉に頭を突っ込んで焼死していたり、路上で少女から誘惑されそうになりそれがもとで警察から呼び出されたりと、次から次へと謎めいたことが起こります。

 透視能力を持った女が次々と現れるというオカルト小説的な雰囲気がある一方、ホテルの女主人の夫が四人も次々死んでいたり、催眠状態に見えた女占い師が実はその時もう死んでいたか、直後に殺されたかという推理小説的な仕掛けもあります。主人公の旺盛な行動力はハードボイルド小説を思わせますし、またアリスと会っているうちに主人公がどんどん窶れて行くのはアリスが吸血鬼だからと匂わせる吸血鬼小説のようだったり、奇怪な夢の描写が続く幻想小説風なところもあります。

 主人公が疑心暗鬼の中で苦悶し仮説を立てあれこれ推論を展開しますが、話が抽象的な分、私の語学力では、読解が途中からどんどん難しくなってきました。ドロテがイメリンやホテルの女主人らと結託して主人公を罠にかけているようにも見えるし、たんに主人公が狂気に陥っていると見ることもできます。最後に主人公とアリスがスイスの山荘で愛し合いながら、疑問を一つずつ解いて行き、夜の彷徨から始まる一連の狂気が昇華したらしい明るい情景で幕を閉じます。本人たちは、謎が解明したと納得しているようですが、私には説得的な説明がないまま、つけやいば的な終わり方をしているように見えます。物事を明示せず、宙ぶらりんのまま終わらせるのが著者の意図なんだと思いますが。


 ミシェル・ベルナールの翻訳本を持っていたので、この機会に読んでみました。
ミシェル・ベルナール藤野信二訳『啞の黒人女』(三崎書房 1971年、原書は1968年刊)

 昔どこかの店頭均一で100円で買った裸本。こちらのほうが『若い魔女』よりも早く書かれたものですが、より幻想小説の色合いが濃厚です。正確に言えば、幻想小説の構造をもってはいますが完全なポルノ小説です。ポルノ小説と言う根拠は、①登場人物がたくさん出てくる。②しかも全員無駄がない(というのはすべて性戯に絡んでくる)。③登場人物をたくさん登場させるために、いろんな人間関係を複雑にさせたり、場面を増やすために、読み物を挿入したり、絵の情景を説明したりと、涙ぐましい工夫がある、などの特徴が露骨だからです。

 どぎつい性描写は老人の私には耐えらず、飛ばし飛ばし読みましたが、構造的にはなかなか魅力的な幻想小説です。もう少し描写が和らいでいたら万人が読めるすばらしい小説となっていたでしょうに。『若い魔女』の方ではそうした描写は極力抑えられていました。


 複雑な構造をもつ娼館に閉じ込められた数人の娼婦が、経営者らしき提督(アミラル)の日記を読み、あるいは過去を回想するという大枠のなかで、いろんな挿話が展開しますが、魅力的な要素を列挙すると、
①場所の魅力。《無憂郷》と呼ばれる娼館の建物は、その醜怪さに魅力がなくもないという四階建てのネオ=ゴシック式建物で、内部に階段のある二つの塔が側面についた巨大なホテルとティー・サロンのある現代風の建物に接しており、いたるところに覗き仕掛けや窓や穴のトリックが仕掛けられている。また外は白塗りなのに内部は真黒という別荘も出てくる。
②視線の多層化。覗き窓をとおして見物人が観察しているが、さらに別の覗き窓があって、最初の見物人をまた別の見物人が観察できるようになっていること。さらに言えば、この本を読んでいる読者も別の覗きをしているのだ。
③人物の存在が不確かであること。娼婦たちは提督の姿を見たことがないこと。用心棒のミノス(Minos)とシモン(Simon)がアナグラムになっていて同一であると匂わせ、提督が実はペーター・シュネルという大金持ちだがケチな男で、大衆レストランの裏庭で鱶に噛み切られて死んだという話が出てきた後、ペーター・シュネルは架空の男だと言ったり、提督がシャルル・クラーヌとかいう男ではないだろうかとほのめかしてみたり、あげくに、提督は存在せずミノスだったのであり、しかもミノスという資格では一度も存在したことがないという。(これは日本語で読んでいてもよく分りません)。
④物語の中の日記の存在。『ばら色の書』と『黒色の書』という二つの日記があり、イレーヌが朗読する形で頻繁に引用される。「一度眺めたものを空想の光景の中で再現するために提督が書いたもの」とイレーヌは説明するが、最後に、絶望した狂気の女イレーヌが書いたものと分かる。
⑤日記の中の言葉として、著者が自らの本に言及していること。「自分は引退して本を書くつもりだ、迷宮をつくるつもりだ」(p173)。「挿話が多すぎるのはわざとらしいし、筋の展開という至上目的のために案配したように思われるかもしれない。でも、それらはまったくの偶然にもとづいているのだ。それに、ぎょっとするような、思いがけない挿話の数々を、私はまだ言いもらしている」(p298)。

 ⑤と関連して、私にはよく理解できないままですが、日記の中で、提督が保護者(これは作者のことだろうか?)からコールリッジの詩『クーブラ・カーン』のコピーをメッセージとして受け取り、それを次のように解釈するくだりは、この物語の重要なポイントのような気がします。「コールリッジは、クビライ汗が建てた宮殿を主題にしたこの詩を夢に見たのである。そしてコールリッジは、この十三世紀の蒙古の皇帝自身が、この宮殿を夢に見て、その夢にもとづいてそれを建てたのだということを、知らなかったのだ。・・・彼(保護者)はいったい何が言いたかったのだろうか?初めの二つの夢に自分がもう一つ夢を付け加えたということを知らせるつもりだったのだろうか?それとも、この続きを引き継ぐべきなのは、この私だというのだろうか。今まで何も知らなかったし、したがって、すでに、続きを引き継いでいるということも知らなかったこの私が」(p312)。


 ミシェル・ベルナールは、エロティックな要素と幻想的な要素を混在させた作家とネットで紹介され、また『啞の黒人女』のあとがきでは、J・グラック、A・P・マンディアルグ、P・クロソウスキー、G・ランブール、M・シュネデールらの後継者というような紹介がなされていましたが、自分の本を出版している出版社(Christian Bourgoisの次にDENOËL)の編集者でもあり、フレデリック・トリスタンを発掘したりしているようで、なかなかブッキッシュな知的な作風だとも言えます。

 カルパッチョの絵にインスピレーションを得て、ヴェニスを舞台にしたという小説『Les Courtisanes(娼婦たち)』が代表作のようなのでぜひ読んでみたい。