:池上俊一『狼男伝説』


池上俊一『狼男伝説』(朝日選書 1992年)
                                   
 エルクマン・シャトリアンの狼憑き小説を読んだ流れと、併せて中世への興味から読んでみました。「狼男伝説」というタイトルはあまりよくありません。というのは、狼男について書かれている部分はこの本の五分の一にも満たず、内容は中世の想像界のあり方を論じているものだからです。そういうことがあってか、河出文庫に収められた次の版では『中世幻想世界への招待』というタイトルに変わっていて、この方が内容を正確に表しています。

 著者は、フランスでアナール学派を学んだ人らしく、この本はその成果を発表したもので、中世ヨーロッパの歴史を人びとの想像界を追求することで叙述しようというものです。中世ヨーロッパ想像界の構成要素となるのは、「ギリシャ=ローマ文化、ゲルマンの習俗、キリスト教霊性、さらにケルトの夢想(p8)」と指摘しています。それに加えて「おりから農業生産が増大し、人口もふえて各地に都市が林立し、人びとは、エネルギッシュな活動をするようになった(p9)」といった旧来の歴史的な観点もしっかりと踏まえています。

 第一章の「狼男」では、はじめに、①なぜ他の動物ではなく狼なのかは、ヨーロッパでもっとも恐れられていた動物であったこと(p21)、②狼男のイメージの源となったのは、森のなかで修業をするために世俗の衣服を棄てて動物の毛皮をまとった隠修士の存在や(p30)、部族の秩序と平和を脅かし蹂躙するおぞましい罪を犯した者は狼たるべしといったゲルマン法の記述(p62)によるものと指摘し、中世の狼男譚では、それまで異教的な狼男の信仰に、姦通恋愛を検閲し裁く立場を付与するというキリスト教的な道徳観が付け加えられていることを述べています(p55)。そして、狼男という、自然と人間の中間にある存在が誕生したのは、この時代が、野生空間と文化空間とのあいだで揺れ動いていたからだとしています。

 「聖体の奇蹟」を扱った第二章では、秘蹟と奇蹟の違い(秘蹟はあらかじめキリストにより定められた七つのしるしで、奇蹟は超自然現象)や、聖体パンをめぐる論争(本当にパンのなかにキリストの肉体が現存するのか)などについて教えられました。聖体パンはどこでだれが作っているのかというのは下衆の勘繰りというものでしょうか。いちばん印象深かった指摘は次のような部分で、これは今のパレードや祭りの行列にもある程度通用するように思います。「聖体行列・・・は、聖なるシンボルで都市空間を分節し判読して、都市のあるべき秩序を再確認し、そのイメージを都市民の頭に植えつける役割を果たした(p137)。」

 第三章の「不思議の泉」では、万足卓の『泉の詩』を思い出しましたが、ここでも「異教的な泉への信仰と、キリスト教的なそれとが雑居し、次第に後者が前者を駆逐してゆく(p144)」ことが述べられていました。泉のイメージにはキリスト教的な「恩寵の泉」と世俗的な「若返りの泉」があり、前者にはマリアの泉とキリストの泉があり、後者の「若返りの泉」はやがて「愛の泉」となるそうです。キリストの体を万力で締め上げてその血を生命の泉とするイメージ図は、残酷趣味で清らかさに欠ける気がしましたが。

 第四章「他者の幻像」では、ユダヤ人とライ病患者に対する迫害が、「イスラム教徒が彼らに井戸に毒を入れろとそそのかした」というデマをもとに激しくなったこと(p213)を知りました。これは関東大震災のデマとよく似ていますが、ユダヤ人迫害はずっと昔から続いていたんですね。これは「十字軍意識」の高揚がユダヤ人を「キリスト殺し」とする意識を高めたことが原因のようです(p214)。

 「彼岸への旅」を取り上げた第五章は、煉獄への旅と、楽園への旅の二つを扱っています。ケルトの『フェヴァルの息子ブランの航海』という物語で、航海の先の「女の国」で一年間過ごした後故郷に帰った一行が、「ブランという人は何世紀も前にアイルランドから姿を消して、もうこの世にいない」と言われ愕然とし、仲間の一人が舟から飛び下り上陸すると、かれはたちまち灰となって消えた(p310)というくだりは、同じ異界訪問譚の浦島の物語と酷似していますが偶然の一致でしょうか。

 各章のテーマはそれぞれが一冊の本になるほど大きなものだと思います。最後に無い物ねだりですが、狼男、聖体、泉、他者、異界、これらのイメージが近代にどうつながって行ったのかに興味が湧きました。これを行なうには膨大な研究が必要でしょうが。

 紙質のせいで、図がよく見えない部分があったのが残念ですが、面白い図がたくさんありました。ここでは変わった「狼男」の図をひとつ紹介しておきます。