:聖ブランダン航海譚

                                   
藤代幸一訳著『聖ブランダン航海譚―中世のベストセラーを読む』(法政大学出版局 1999年)

                                   
 池上俊一が『狼男伝説』の「彼岸への旅」でケルトのイムラヴァ文学として取り上げていたのを見て、手元にあったのを思い出して引っ張り出して読んでみました。ここしばらくは中世ものを続けて読んで行きたいと思っています。

 この本は『聖ブランダン航海譚』というドイツの民衆本の翻訳紹介と、それをもとにして、ヨーロッパ中世の歴史や文化を解説したものです。もともとは10世紀の半ば頃アイルランドの修道士がラテン語で書いた『聖ブレンダンの航海』という本があり、それがヨーロッパ各地に広まったようです。

 藤代幸一氏は、このドイツ民衆本と原話のラテン語版や流布した他の版との比較にはじまり、アイルランドの地誌から、実在した聖ブレンダンの紹介、さらには聖パトリックの煉獄などの類話にまでおよび、悪魔や善き男、異形の人びとへの考察や、写本と印刷についてなど幅広く論攷しています。最後の業績のページを見ると大学者だと思いますが、素朴な考察の姿勢には好感が持てます。

 とりわけ注目したのは、このドイツ民衆本が印刷術が登場して間もない頃のものであり、ラテン語版の物語と比べて、書物が真理を表わすということにこだわった話の展開になっていると着目したところ(p175)、なぜ16世紀前半を最後にドイツではこの物語が衰退したかについて、プロテスタンティズムの新しい信仰(福音主義、聖書主義)と相容れない思想(善行による救済)を讃美していたからと解釈しているところ(p179)、この本にはキリスト教的基調に貫かれながらケルトの楽園観に見る異界要素が底流にあり、読者は宗教説話としてよりもミラビリア(驚異物語)として読んでいたと指摘しているところ(p145)、また文体に注目して「瀝青と樹脂のごとく真黒な」という色彩や、「来る、咆哮する、立ち去る、打ちすえる」などの描き方に見られるように、形容詞と動詞による描写のみで名詞がないと分析しているところ(p123)です。

 他にも印象深かったのは、楽園の一種として紹介されていた、行儀の悪さが進むにつれ褒賞の額が上ってゆく「のらくら天国」(逸楽境)と、その天国の場所を示した「クリスマスの三マイル後ろ」という表現 (p159)。それに、著者は戸惑いを隠せませんが、馬勒を盗んだことがいっぽうでは大きな罪として描かれるのに、他方では所有権不明の黄金と宝石を大喜びで皆して船に運び込む様子が好意的に描かれていること (p150)、これはまさに中世のお話ならではの逸脱、非合理といえるでしょう。

 著者は、異界へ通じる目印をいくつか挙げています。海、島、霧、林檎、水晶、泉、糸杉などですが、とりわけ面白いのは、磁石山で、このドイツ民衆本以前には単に石と表記されていたのが、磁石になったのは、当時磁石が発見されたばかりで、それが反映されたもののようです。

 新しい知見としては、モーリッツ・フォン・シュヴィントが絵を描いたことでワルトブルクの城が有名になったこと、アイルランド僧がヨーロッパへ布教したことがキリスト教の拡大に貢献したこと(『狼男伝説』でも若干触れてはいましたが)、グリム童話のお菓子の国のルーツが中世の物語の「のらくら天国」であったこと、などです。
                                   
 ドイツ民衆本版『聖ブランダン航海譚』には素朴な木版画が挿絵としてついています。最後にその素朴さを味わってもらうために、巨大な魚の背中の森で溺れかけた話についていた挿絵をアップしておきます。