:ハワード・ロリン・パッチ『異界―中世ヨーロッパの夢と幻想』

                                   
ハワード・ロリン・パッチ黒瀬保・池上忠弘・小田卓爾・迫和子訳『異界―中世ヨーロッパの夢と幻想』(三省堂 1983年)


 ずっと昔に買って大事に置いておいた本。当時は異界への興味だけで買っていましたが、いまは中世への興味も加わったので読んでみました。

 西洋人ならではの旺盛なエネルギーにまかせて、多くの例証を次から次へと展開していますが、著者も「こまごまとした話題に溢れる記述を次々と追求するにつれて、陳腐な反復作業の中から、ある種の単調さの印象が心にしのびよることは避けがたい事実である。・・・われわれの驚きはやがて薄れてしまう(p317)」と白状しているように、いささか食傷気味。例証の中に、本筋の議論が埋もれてしまっている印象です。もう少し要領よくまとめられなかったのでしょうか。今となって考えてみると池上俊一の『狼男伝説』はよく整理しながら叙述されていたといえます。しかしこの本も「序論」と「結論」には簡単な骨組が紹介されていますので、時間のない人は「序論」と「結論」だけ読めばよいと思います。

 その骨組は、オリエントや西洋古典の神話、ケルト神話ゲルマン神話の異界描写を踏まえたうえで、中世ヨーロッパのキリスト教資料や、寓意文学、ロマンスに現われた異界の種々相を探り、おおまかな影響関係を探ろうというものです。ここで異界というのは、現世に生きる人びとが思い描いている、死後赴く世界や、過去の黄金時代の理想郷を指しています。主として憧れの国を取りあげていて、地獄は必要最小限にとどめ、拷問や懲罰は本書から除外したという楽しい内容になっています。

 聖者の夢や楽園物語、寓意物語、ロマンスなど中世の文学資料を渉猟していきますが、その作品をざっと数えただけでも(かなりいい加減な数え方で重複もあると思いますが)、夢物語は46、楽園物語は50、寓意文学は51、ロマンスは68もありました。日本ではほんの少ししか紹介されていませんが、中世ヨーロッパにはこんなにたくさんの物語があったのかと、茫然とするばかり。

 しかもそれらが互いによく似ていて、お互いに模倣しあっていて、どれが元になっているのかまったく分かりません。著者も「いくたの主題は性格が混合され、本来の形跡がほとんど完全に判別できなくなって・・・どこまでが伝統的なもので、どこまでが新しい発想なのか、識別がしにくい(p310)」と、いささか及び腰の感じです。

 それでも、著者が下している大まかな結論としては、中世ヨーロッパの異界描写の諸形態は、オリエントと西洋古典にほとんど出尽くしており、とりわけ東方の影響が大きいということ。そしてルーツと考えられる特徴としては、オリエントでは、川と橋、水の障害、楽園を潤す四つの河、ギリシアなど西洋古典では、大空への飛翔や船旅、冥府の川、ケルト民話では、島、空洞のある丘、波の下の国、乙女の国、作動する橋や旋回する城、古代北欧神話では、地下の王国、山、火焔の障害、陰鬱な森などと類推しています。ケルトで沼沢地とか荒地、北欧で陰鬱な森が主題になるのは当地の自然環境によるものなんでしょうね。

 異界とくに楽園を表現する場合に否定的修辞を積み重ねる「否定文型」という特徴があることが指摘されていました。例えば「夜の訪れを告げる者もいなければ、黎明の訪れを語る者もない。昨日もなければ今日もなく、・・・春夏秋冬の変化もない」というように。これは仏教的涅槃というか無の豊饒さを表わすひとつの手段だという気がします。現代詩でも、否定を積み重ねることによって実体を想像させ、強く際立たせるという技法があることを思い出しました。

 個人的には、例えば、夏昼寝をする時の微風、寒い日の暖炉の火の揺らぎなどの心地よさから、楽園の心地よさを思いやったりしますが、ここで引用されている楽園の描写に「暖かい風」とか「甘い香りの不思議な微風」という表現があったのは納得できました。

 私としては、この膨大なイメージの宝庫のなかから、お気に入りのイメージを探すのにもっぱら楽しみを見出しておりました。その成果を披露しておきます。

天空に懸かる虹の形をした不思議な川―その川の水は糖蜜の味がする・・・真鍮の柵で囲まれた島、尖った支柱に真鍮の網が張られ、風をうけて楽を奏でては、穏やかな曲が三日三晩人を眠りにさそう。/p38

鳥がいて、青色と赤色の卵を産んでいた。旅人の一人がその卵を食べると、身体中に羽毛が生え、水浴の時にだけ抜けてなくなる。/p39

彼は金の林檎が三つ生っている銀の枝を肩にかけているが、その林檎は枝がゆれると、えもいわれぬ音を奏でる/p47

王の口からとかげのような動物が這い出して来て・・・再びグンスラムの口におさまりました。/p77

黒武者の斬りつける傷口はすぐに元通りにふさがるが、赤武者が加える打撃は自然な傷を負わせる。/p81

墓を暴いて・・・財宝を盗み始めると、誰かに手を摑まれたような感じがして格闘となり/p83

二本の樹が大地の中から立ち現れました。そしてこちらの岸の一本の樹が前屈みになって梢にわたしを乗せ、川の真中を見下ろすところまで持ち上げました。すると向こう岸のもう一本の樹がわたしに会って、その枝にわたしを乗り移らせ、前屈みして地面に下してくれました。/p100

その木には神の御霊が宿っており、御霊が呼吸するごとに水を吹き出していた/p152

〈生命の泉〉・・・死んだ魚をその水に浸けて洗うと、魚はたちまち生き返る。/p167

〈魔法の石〉・・・それは埃がつかなければ純金の総量よりも重く、埃をかむると金貨一枚にも足りないほどの目方になるという石/p168

これは「苦しみの丘」であり、ここでは、どの木にも絶望の余り自ら首を吊った人がびっしりとぶら下がっていた。/p225

彼女が彼に指輪をはめると彼は若さをとり戻し、王冠をかぶせるとすべての過去を忘れてしまう。/p269

北西の風か北風が吹くと、風は宮殿にまともに当たり、宮殿を荷馬車の車輪のようにまわした。/p283

 この他、「足をかけた者が後ろ向きに倒れる橋(p35)」「見た者は必ず両眼がとび抜けるという井戸(p55)」「中の食べ物が決して腐らない釜(p58)」「編み枝細工をほどこしたように一面に蛇で覆われた壁(p68)」「三度深く考える谷(p226)」「海中の樹木(p233)」「死後の魂に化身する蛇(p272)」「女の顔をした蛇が棲む洞穴(p310)」など。