:鈴木信太郎三冊、『ヴィヨン雑考』『半獣神の午後其他』『記憶の蜃気楼』

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鈴木信太郎『ヴィヨン雑考』(創元社 1941年)
鈴木信太郎『半獣神の午後其他』(要書房 1947年)
鈴木信太郎『記憶の蜃気楼』(文藝春秋新社 1961年)


『ヴィヨン雑考』は前回読んだ『文學遁走』とかなりの部分(7割がた)重複していたので、重複部分は斜め読みをしました。この本の方が、活字の雰囲気、字の大きさ、紙質、装幀が好ましく感じられます。

 前回書かずにいましたが、著者が「ヴィヨンがあまりに江戸時代の戯作者の調子になり過ぎて、素朴の味は失われている・・・が、これほど自由自在な奔放な翻訳は出来るものではない(p154)」と高く評価している矢野目源一の『卒塔婆小町』がよくできていて、「さても可愛や・・・ええ腹が立つ・・・様天弁が座鎮まします・・・汚点(しみ)さえあるえ(p159)」といった具合に、詩の節の最後に一言付加されている言葉の調子が何とも魅力的です。

 他に、物語的興趣に溢れていて面白かったのが、ビュリダンと女王ナヴァアルとの伝説(p140)やヴィヨンが庇護されていた巴里奉行が政権交代とともに替って、新しく厳しい奉行が来た顛末(p223)など。この新奉行ジャック・ド・ヴィリエがヴィリエ・ド・リイルアダンの祖先というから驚きです。


『半獣神の午後其他』は、「マラルメ雑考」「ヴィヨン覺書」の二つの重厚な学術論文と、「文學去来」という随筆(ほとんど『文學遁走』と重複)からなり、前者ではフランス語の引用がおびただしく出てきますが、誤植も多く、とくに古語の引用の場合間違いかどうか分からないので、困りました。

マラルメ雑考」のなかの「『半獣神の午後』研究」は注解書のようでのんびりと読むには難し過ぎ、そのうちもっと丁寧に読もうと軽く読み流しました。「そのうち」というのは私の場合もうないということは重々分かっているのですが。

マラルメ雑考」のなかの「詩の誕生」は、マラルメが「エロディアド」の創作に如何に難渋していたかを、友人らと交わした手紙で跡付けていてなかなか読ませる好編です。これは『ステファン・マラルメ詩集考』上巻の「《Hérodiade》の創作過程について」とほぼ同じ形。次の「マラルメとメリイ・ロオランとの関係について」も『ステファン・マラルメ詩集考』「メリイ・ロオランに関係ある四篇の詩について」とほぼ同じ内容です。それにしても謹厳そうなマラルメにも意外な一面があったとは。フランス人だからそんなものか。

 辰野隆とのヴィヨンの「道化懲戒」という詩の解釈についての論争を克明に紹介した文章も面白く読みました。方や「詩人が詩を放棄して、女に溺れる時、詩人は消滅する」ことを詠ったと主張するかと思えば、もう片方は「太陽の如く君臨するユウゴオに対する自分の詩への自負並びに孤寂の心境」を語るものと主張します。確かに難しい詩ですが、双方とも詩の裏の意味にこだわり過ぎだと感じました。結論は妥当なところに落ち着きましたが、この二人の大学者ですら早合点や思い込みで解釈しているのを見ると安心するところがあります。

「文學去来」のなかの「リャン君去来」は、中国人フランス文学者との交流を綴ったもので、ヴァレリーボードレールの中国語訳が掲載されています。大戦前の不穏な時代、忽然と消えたリャン君はその後どうなったのか気になります。そのリャン君が仏訳した陶淵明の詩をヴァレリーが簡素だと評したことに対して、「陶淵明が簡素であるより以上に、仏蘭西語が簡素であるのでは無いか(p334)」と鋭く指摘していますが、ヴァレリーに対してよくぞ言ったと思います。

 最後の「同名異人の話」は『文學遁走』にも収められていましたが、鈴木信太郎という同姓同名の画家が別にいるという所から話をひろげて奇想天外なユーモア話に仕立て上げています。

 この本は『文學外道』でも紹介されている川口軌外が扉絵を担当していました。


 『記憶の蜃気楼』は全体として、老年に至った著者が過去を回想して語る内容で、「記憶の蜃気楼」というタイトルどおりです。最も著者らしい話は、「黄金伝説」の東大仏文の人物を中心とした、戦前戦後のフランス文学界の話題。その他、酒の話、ゴルフの話もあります。身辺の話、思い出話のオンパレードで、フランス文学者や作品に直接触れるようなものはありませんでした。

 当時の日本の、他人の生き方にこまかく口出しする風潮を嘆いて、個人が尊重される社会の実現への希望を述べる部分がありますが(p89)、いまや逆に、個人主義の害悪を指摘し社会の紐帯が必要だという世の中になっているのは隔世の感があります。

 この本のなかの出色は、昭和23年辰野隆の還暦停年の時の大酒宴の様子で、「研究室三階の会議室は全く杯盤狼藉で、宴酣となっては日夏耿之介はテーブルの上に草履のまま上って踊り、森有正は廊下に這いつくばってデカルトを罵り(p193)」といった様相が紹介されていて、これには参加しなくともどこからか眺めてみたい光景ですね。

 ボードレールの『悪の華』の初版と再版を東大教養学部の学生だった松山俊太郎が買ったときの話がでてきます(p229)。この二冊は最近何かの本で写真を見た記憶があるが、何の本だったけかな。