:J・P・クレスペル『モンパルナス讃歌』、矢島翠『ラ・ジャポネーズ―キク・ヤマタの一生』の二冊

///
J・P・クレスペル佐藤昌訳『モンパルナス讃歌―エコル・ド・パリの群像1905-1930』(美術公論社 1977年)
矢島翠『ラ・ジャポネーズ―キク・ヤマタの一生』(ちくま文庫 1990年)


 引き続きパリに関連した本を読んでいます。この二冊もお互い直接関係はありません。たまたま前後して読んだというだけです。前者は20世紀初頭のモンパルナス界隈の芸術家や作家たちの生態を都市の盛衰と絡めて報告したものですし、後者は日仏混血の一女性作家の生涯を詳細な資料と関係者への取材で丹念に追ったノンフィクションです。

 キク・ヤマタが1923年にパリの文芸サロンにデビューしてからの7年間は、時代と場所が重なるわけですが、アンリ・ド・レニエジャン・コクトーアンドレ・ジッドなど共通する名前は見えても、キク・ヤマタがモンパルナス界隈で芸術家や作家たちと交流したという記述は見当りませんでした。当然日本人同士ということで、藤田嗣治とは面識があったはずですが。

                                   
 『モンパルナス讃歌』は、フランス文化の絶頂期とも思われる20世紀初頭、パリの一角に、世界中から芸術家や作家たちが集まった様子を克明に報告しています。500人近い人名が出てくると「あとがき」に書かれているように、シャトーブリアンに始まりマン・レーにいたるまで出てくるわ出てくるわ。

 固有名詞が普段聞きなれているのと違う表記が多く目につきましたが(例えばジャン・ロランがジャン・ロレン、ミロシュがミローズ、タイヤードがテラドなど)、訳した当時はそれほど情報がなかったのかもしれません。

 田園の広がるだけだった町に、ソルボンヌが近いということで大学教授らが集まりはじめ、ラスパイユ大通りの開通や、モンマルトルが俗化したのを嫌って画家たちが脱出してきたこと、彫刻家ブッシュが芸術家コロニーを作ったことなどで、一挙にモンパルナスが活性化していく様子が、細かく辿られています。

 画家や文人たちが集まった場所も、「クロズリ・デ・リラ」「ドーム」「ジョッキー」「黒人舞踏会」「スフィンクス」「クーポール」と変遷していき、また外国人もイギリス人、ロシア人、ドイツ人(先日この欄でも紹介したミュンヘンの雑誌「ジンプリツィシズム」にパリから寄稿していた)などが割拠し、そして最後にアメリカから大挙押し寄せて万単位のアメリカ人が溢れていた様子が描かれています。

 「クロズリ・デ・リラ」の常連メンバーを見ると、二十世紀初頭の錚々たる文人が揃っていて、この時代に潜入して、店の片隅で、かの文人たちが飲んでいたというマンダラン=シトロンやピコン=キュラソーなどを飲みながら、彼らの一挙一動を黙って眺めていたいと思わせられました。


 『ラ・ジャポネーズ』では、1920年代まだサロンの面影の残るフランス文人たちの最後の栄光の時代を垣間見ることができ、また明治時代海外へ雄飛した日本人(キクの父忠澄)の骨太の生き方や、戦前日本の山の手の生活の優雅さを感じることができました。

 フランスで日本を紹介できる数少ない筆者の一人として幸せな文筆活動をスタートすることができたのに、逆にそのことが戦争による対日感情の悪化で足を引っ張ることとなった悲運。また日本に講演旅行で戻ったその時に太平洋戦争が勃発し足止めを食って戦時中の特高による厳しい訊問を受けることとなってしまった間の悪さ。戦後ようやく日仏間の情報交流の伝え手として元の姿に戻ろうとした時、新しい文学運動が起こりその波に乗り切れないなかで、筆者としての価値を失っていった様子が描かれています。

 この本が感動的なのは、そうした運命にもてあそばれながらも、キクの積極的で一生懸命な生き方が感じられるところだと思います。それを関係者の証言で浮かび上がらせていく筆者の筆の力というところでしょうか。

 これだけの文筆活動をしていても、老後は悲惨な生活を送らなければならなかったのは、夫がほとんど収入のない絵描きだったということが輪をかけているにせよ、なかなか文筆業も大変なものだと思わされました。売れない絵描きが美談化されることが多いですが、このスイス人の夫を見ていると、結局はわがままな駄々っ子でしかないという印象はぬぐえません。

 キク・ヤマタに日本の怪談を題材にした「四つの奇怪な小説」というのがあるのを知り、ぜひ入手したいと考えております。

 あとがきで矢島翠は加藤周一夫人だったことが分かりました。それで矢島翠が訳したルネ・ドゥ・ベルヴァル『パリ1930年代』に加藤周一が序文を書いていたわけですね。

 キクの父忠澄がリヨンの工業学校の化学科で染色を学んでいたとき、リュミエール兄弟も同じ化学科におり、稲畑産業創始者稲畑勝太郎も共通の友人だったこと、その縁で、稲畑勝太郎が大阪で初めて映画を上映したことなども始めて知りました。