:世紀末ミュンヘンに関する本三冊

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今泉文子『ミュンヘン倒錯の都―「芸術の都」からヒトラー都市へ』(筑摩書房 1992年)
山本定佑『世紀末ミュンヘンユートピアの系譜』(朝日選書 1993年)
宮下健三『ミュンヘンの世紀末―現代芸術運動の源流』(中公新書 1985年)
(読んだ順)


 世紀末ミュンヘンに関する本を続けて読んでみました。
狭い空間と限られた時間を扱っているので、同じ人物、雑誌、カフェ、事件などかなり重複していましたが、著者の関心が違うので、それぞれの特徴が出ていて面白く読めました。

 副題が特徴をあらわしていると思います。『ミュンヘン倒錯の都』はヒトラーが出現するに至ったミュンヘンの風土と背景を中心に、『世紀末ミュンヘン』は母権制をベースにしたユートピアを夢見た人々を中心に、『ミュンヘンの世紀末』はアール・ヌーヴォー、ゼツェシオンに並ぶユーゲントシュティールの活動を中心に、描いています。

 これらを読んで、自分なりに分かったことは、ひとつはミュンヘンという都市についてで、歴史的な成り立ちと地理的な優位性で、都市の特徴が形成されるものだということです。ミュンヘンの場合は芸術庇護に篤い王族が歴代続いたこと、初期ドイツ・ロマン派のメッカのようになっていたことが、その後の芸術家や文人が集まる大きな要素になったこと、また位置的にドイツの南部で、ウィーンにも近く、ドイツ各都市からパリやイタリアへ抜ける時の要所になっていることが、国際的な交流が活発になった原因だと思われることです。

 もうひとつは、ヒトラーの登場の背景に、世紀末からの精神風土が大きく影響していたということです。ヒトラーユーゲントは、物質文明の大都会から脱出して、隊をなして山野をひたすら歩きまわるという「青年運動」を受け継いでいるし、反ユダヤの背景には、大都会を覆う科学と技術を拒否し、知性や学問の中心的担い手であるユダヤ人を敵視する態度があったということで、世紀末のデカダンスのムーヴメントが近代に対する文化的反抗の形態であるのと同根だということです。ヒトラーデカダンス的芸術を退廃芸術として排斥したのも、同根であることを見破られまいと思ったからに違いありません。


 ある時期、狭いエリアに、その後のヨーロッパに大きな影響を与える人物が、交錯していたのは不思議な気がします。レーニントロツキーがしばらく滞在し、遠くからロシアにむけて指令を発したり、イプセンが長く逗留していたり、ヒトラーが演説し、カンディンスキーとシェーンベルグが抽象芸術観で共鳴し合い、リルケゲオルゲパウル・クレーが同じ時期に居て、トーマス・マンホフマンスタール、リヒヤルト・シュトラウスブルーノ・ワルターが居て、そして時期は違うが森鴎外までもが居たとは。


 いろいろ知らないことを知ることができました。お恥ずかしい限りですが、
オスカル・パニッツァがミュンヘンの街を裸で歩いて逮捕されたこと(p103)、ヒトラー焚書リストの中にH・H・エーヴェルスやグスタフ・マイリンクも入っていたこと(p215)、ヒトラーがポルシェに依頼してフォルクスワーゲンを設計させたこと(p219) 以上『ミュンヘン倒錯の都』

ナチスハーケンクロイツはシューラーという民間学者が発見した古インドのシンボル(p14)、一九三九年から2年間に、約十万人のドイツ人(ユダヤ人でなく)の、慢性アルコール中毒患者、精神病院入院患者、身体障害者らが、さまざまな方法で「安楽死」させられたこと(p83)、ミュンヘン近くのアルトエティングという田舎町に黒マリア崇拝のメッカがあること(p180)、カンディンスキーが神霊術、オカルトに興味を持っていたこと(p219)、ミュンヘン革命の当日トーマス・マンブルーノ・ワルターが隣り合ってコンサートを聴いていたこと(p234)以上『世紀末ミュンヘン

ミュンヘンで活躍した文学者たちの多くがバイエルン人ではなく、北ドイツのリューベックやフーズムの出身者だったこと(p24)、ミュンヘンにはたくさんの噴泉があること(p31)、ミュンヘン大学本館裏通りのアマーリエン街に何軒もの古本屋があること(p39)以上『ミュンヘンの世紀末』
など。


 それぞれ印象に残ったところを引用しておきます。

18世紀後半からイタリアは、プロテスタント的刻苦精励の日常、閉塞的な日常の彼方にあって、官能の地、生の覚えのないほど強烈な昂揚をもたらす約束の地となっていた/p14

それ(近代の進展)への政治的対抗ではなく、文化的対抗として、十九世紀的教養を身につけてきた唯美主義的な教養市民層の一部は頽嬰的なデカダン的態度を選びとったのである/p27

彼ら(郷土芸術運動の人々)は大都会を覆う科学と技術を拒否し、知性と学問/学者を、そしてほとんどの場合その担い手であるユダヤ人を敵視する。そしてこれらに対する理想的・積極的対抗者として「農夫」が対置される/p141

以上『ミュンヘン倒錯の都』

ユートピア志向の中には、多くの場合歴史的現実からの逃避、無時間的なものへの没入、といった要素がある。ユートピアの多くが、城壁を巡らせたり海に囲まれた島であったりするのも、その表れのひとつ・・・しかしこのことこそが、多くのユートピアが孕んでいる本質的な危険のひとつである/p66

女性原理としてのエロスによる男性主導の文明社会への反逆は、、ヨーロッパ世紀末全体を貫く見えざる底流となっていたと考えたほうが実態に近いであろう。これは、世紀転換期の装飾芸術としてヨーロッパ全体を風靡したアール・ヌーヴォーにも共通していえることである/p158

以上『世紀末ミュンヘン

「ユーゲント」という言葉は、それを聞いただけで心が明るくなる呪文のひとつである。どの国の言語にもそのような呪文がいくつかあるが、ドイツ語の場合、それはフリューリング(春)、ムッター(母)、ハイマート(故郷)など/p110

人生から、良い時間からできるだけ多くをせしめる快楽主義者/p148

以上『ミュンヘンの世紀末』