:メリュジーヌの物語に関する本二冊

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ジャン・マルカル中村栄子・末永京子訳『メリュジーヌ―蛇女=両性具有の神話』(大修館書店1997年)
クードレット森本英夫/傳田久仁子訳『妖精メリュジーヌ伝説』(社会思想社 1995年)



篠田知和基の『竜蛇神と機織姫』を読んで、もう少し分かり易い本はないかと、手持ちの本を探し出してみました。

 メリュジーヌの物語とは、騎士レモンダンが泉のほとりで会った美女メリュジーヌと、土曜日は部屋に籠るのでけっして見てはいけないという約束のもとに結婚するが、浮気をしているのではという親戚の忠言で覗いて見ると、なんと下半身が蛇で水浴びしていて、その後お互い黙っていたが、ある日レモンダンがみんなの前でその秘密を漏らすと、メリュジーヌは嘆き叫びながら蛇の姿になって空に飛んでいくというお話です。


メリュジーヌ―蛇女=両性具有の神話』は、メリュジーヌ伝説の解釈を通じて、「父権的なユダヤキリスト教ギリシア古代文化以前にあったケルト的母権社会の存在を突き止め、その根源に蛇女=両性具有の神話の存在を想定(p316)」し、「両義性を一身に担った『両性具有の女』が太古の時代には存在したが旧約聖書から排除された、しかし人間は男も女も本質的に両義的=両性具有的な存在なのだ、と主張(p310)」している本です。(「」内はいずれも訳者の解説)

メリュジーヌに沿った記述がなされており、篠田知和基の守備範囲の広い『竜蛇神』に比べて、内容が納得できるかどうかは別にして論旨は明快です。

読んでいて気になったのは、著者マルカルが、あやふやなことを扱っている割には断定的な口調をしていることです。精神分析的な解釈や神話の解釈に接する際には往々にしてこのような印象を受けることが多いように思われます。これと似たことでは、経済学者が経済予測を断定的に述べながらあまり当たらないことを思い出しますが、やはりプロという意識がこういう口ぶりにさせるのでしょうか。

そういう点では、訳者代表であり解説を書かれている中村栄子さんに好感が持てました。それは自分なりに探究を進めていて問題意識を持ちながら訳していること、なので著者に対しても批判の目を確保できていること、また著述の仕方が断定的ではないことです。

読みながら、「どうやら著者は二元論に反対するのが眼目で、両性具有が人間の原初の姿ということを力説したいようだ」と異議を唱えていると、訳者も解説で、「彼(マルカル)が雄弁になればなるほど、眉につばをつけたくなるのは私だけではないと思います。どうしてそんなに躍起になって男女・善悪・陰陽・聖俗・生死・愛憎などという、人間存在の根源的な二元性にこだわり、それを超越しようと努めなければならないのでしょうか(p309)」ときちんと書いていました。

メリュジーヌの蛇の尻尾はペニスの象徴(p20他)だとか、レモンダンがメリュジーヌの秘密を知ろうと覗いて見たものは鏡に映った、性転換された彼自身の姿(p255)だとかよりも、もっと素直に、女性の持つ月1回の生理に象徴される神秘性や、女性がヒステリーで別人になってしまう恐怖、人間がどうしようもなく引きずっている太古の獣性だとか、親密な夫婦の間にも必ず存在する秘密とか、それを言っちゃおしまいよという秘密など、この物語が暗示しているものについて言及がまったくないのは不思議です。「この伝説にはまた詩的な美しさがある。そこにはタブー侵犯の後、失われた幸福を嘆き悲しむ妖精妻のメランコリックな詩情がある(p277)」という文学的な指摘が唯一の救いです。

つい悪いことばかり書いてしまいましたが、紹介されている各種神話の想像的世界は大変魅力的で、エキドナ、ラミア、パンドラ、メディア、エウリュディケ、ルキナ、ガチョウの足の王妃、ケリドウェン、ダナと聖アンナ、リヒアンノン、モルガンなど、メリュジーヌの系統と考えられる女性神についての記述には大変興味をそそられました。

また「ヘラの呪いにつきまとわれて眠りを失ったラミアがゼウスに哀願すると、ゼウスは夜の間両眼をはずして壺の中に置くことのできる力を授けた(p177)」というような一節を読むと、こうした神話的な物語から当分は離れられそうにもありません。
 

 『妖精メリュジーヌ伝説』はメリュジーヌに関する二種類の流布本のうちの一つ。同じ原本の翻訳が講談社学術文庫から別の訳者で出版されていますが、そちらは叙事詩の形式を踏襲しているようです。(一般的に叙事詩の翻訳については散文に直したものの方が読みやすいと思います)

物語は、リュジニャン家の領主が司書に書かせたという由来から分かるように、リュジニャン家一族宣伝の物語で、一族がどうして拡張してきたかを、古い時代では妖精の加護のもとに英雄たちが活躍した歴史を振り返り、近い時代の領主に対してはその徳を称えた物語です。

面白いのは、物語の中に一つのパターンの繰り返しが見られることです。
メリュジーヌの物語の根幹である「禁忌を犯す」という点では、メリュジーヌの土曜日は部屋を覗くな、プレジーヌ(メリュジーヌの母親)の産褥を覗くな、ハイタカの城の奥方の身体は褒美として求めるなの三つの禁忌とその侵犯が繰り返されます。

また一族の拡張の物語中、一族のメンバーがキプロス王が異教徒に攻められているところを助け、ルクセンブルクアルザス王に攻められているところを助け、ボヘミア王が異教徒に攻められているところを助け、そしてそれぞれ攻められていた側が助けられたことのお返しに、自分の美しい娘を一族のメンバーと結婚させ領地を譲るという三回の繰り返し。

さらには、単身でのとてつもない巨人との戦い、ゲドン、グリモー、アラゴンの怪物と、これも三つの繰り返しがあります。ただゲドン、グリモーには勝利しますが、アラゴンの怪物だけは一族の物語ではなく、しかも怪物に喰われてしまうというのが単純な反復ではありませんが。

一族の宣伝ということで、自分たちの国のワインの宣伝が出てくるのが面白いところです。オニス、ラ・ロシェル、トゥアール、ボーヌ、クラレ酒、ロマニア酒など、20近くも羅列されています。また「彼らはワインで育った強者たちだったからです(p67)」や「うまいワインで育ったポアトゥ兵(p94)」という表現も出てきますがよく分かりません。ワインを飲んで育つと弱くなるような気がしますが。