:佐藤朔のエッセイ第三弾

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佐藤朔『ボオドレエル覺書』(講談社 1949年)
佐藤朔『セーヌ河畔みぎひだり』(章文社 1958年)
佐藤朔『近代詩人論』(理想社 1971年)


『ボオドレエル覺書』はボオドレエル関連が190ページ近く、残りもフランス詩についてのものばかり、『セーヌ河畔みぎひだり』はフランスでの見聞にもとづいたエッセイ、『近代詩人論』はボードレールコクトーなどフランス近代詩について書かれています。9月は佐藤朔尽くしで都合7冊読んだことになります。


 ボードレールコクトーランボーアポリネールアラゴンサルトル西脇順三郎など、結局この人は、同じことをいろんな本で繰返し書き続けているということが分かりました。


 ここで、おぼろな記憶を頼りに、7冊の重複をまとめてみます。
まったく同じもの
「渡辺さんと私」→『楕円形の肖像』『モダニズム今昔』
マラルメシャンパンの泡」→『楕円形の肖像』『超自然と詩』
ボードレールフローベール」→『近代詩人論』『楕円形の肖像』
ボードレールアラゴン」→『近代詩人論』『セーヌ河畔みぎひだり』
『近代詩人論』所収「アラゴンの肖像Ⅱ」と『超自然と詩』所収「アラゴン1『パリの農夫』」
『楕円形の肖像』「ランボーの現存」と『超自然と詩』「ランボーランボーの現存」

ほとんど同じもの
『反レクイエム』「後期コクトー詩について」と『モダニズム今昔』「コクトー詩について」の後半

よく似ているもの
『近代詩人論』「ボードレールについてⅠ・Ⅱ」と『超自然と詩』「ボードレール
他にも『馥郁タル火夫』についての思い出の文章など、部分的に重なっているのは書ききれないほど見つかります。


 重複が多いのは、一つには、同じ人格なのでそうむやみに別のことを書くわけにはいかないということがあるでしょうし、この7冊は出版社がすべて異なっているので、その都度の論文の選択には、他の本との重複はそんなに考慮していなかったということもあるでしょう。


 さらにもう一つ言えば、これらのエッセイは、昭和40年頃まだフランス文学や文学全集が流行していた時代に、その後書きや解説として書かれたものが多く、その都度の読者に対して書いているので、自然と重複が多くなってしまったのだと思います。


 そういう性格なので、物足らなさはどこかに残ってしまいますが、気楽に読むには最上のもので、楽しみながら詩を中心としたフランス文学の概要や、本国での研究の(当時の)最新の動向を伝えるという役割は十分果たしているのではないかと思います。


 『セーヌ河畔みぎひだり』を読んでいて、佐藤朔氏がマルセル・ブリヨンと会っていたこと(p173)を知り、もう少し詳しく書いてくれたらと思ったのと、ちょうどコーラ・ヴォケール(p76)の出てくるくだりを読んでいる頃、新聞訃報欄でヴォケールの死が報じられているのを見たときは、何かの符号かなと思わせられました。


 印象に残った文章を下記に。

悪魔主義といふことそれ自身、本質的に、一面において、神の存在を肯定するものである筈である。だから悪魔主義者は決して無心論者ではない。この悪魔主義者の作品には、罪と悔恨の意識が強く現はれて居り、悪魔に対する祈は、同時に神に対する祈であった。その涜神は信仰の変形に過ぎなかつたのである/p31

悪の華」の第二部にあたる「パリ描景」・・・パリの風景として暗澹たる冷雨の注ぐ墓地、赤い街燈の灯る泥濘の場末、埃まみれの河岸の古本屋などを書いている。しかし、頭の中では彼はこれと全く異なった、理想の都市を空想してゐる。(「パリの夢」)それは全く人工的な自然からなる都市であって、そこから不規則な植物は悉く除かれてゐる。すべては金属と大理石と水から出来てゐて、噴水や瀧や池があり、樹木の代わりには、柱廊がめぐらされ、建物や階段が燦然と輝いてゐた。/p51

色と音と聲の呼応を説くコレスポンダンスの理論にしても、感覚的に訴へるものをもとにしてゐるので、幽玄朦朧たるものではない。ボオドレエルは極めて知的な精神の持ち主であつたので、彼の用ひてゐる風変わりな詩的心象はやはり明確な印象をあたへる。たとへ詩の中で異常な感受性を示し、ふしぎな官能をうたふ時でも、詩集「悪の華」の中ではそれが秩序ある世界を形作るのに役立つてゐる/p56

朦朧といふことは表現が不完全といふことではなく、絶対を追求する詩人の辿り着く、神秘な境地を示すものである/p262

以上『ボオドレエル覺書』より

悪の華』のなかで、娼婦、盲人、老婆、あるいは屍体、骸骨などをうたったことが、その時代としては新しい美を、あるいは奇異な美を描いたことになり、ユゴーのいうように「新しい戦慄」を創造したことであった/p22

ボードレールは、線のなかでも、千変万化の運動を示す曲線(螺旋、抛物線、ジグザグ、アラベスクなど)を最も好んでいる・・・音楽によって描き出される唐草模様、これはボードレールの最も好む線のイマージュであり、彼はそれを詩によって表現しようと望んだ/p45

ボードレール散文詩バッカスの杖」・・・「バッカスの杖」とは、バッカス神を祀る僧か尼僧の持つ杖だが、それは一本の杖で、「乾いた、堅い、真っ直ぐな」杖の周囲に、草の茎や花々が巻きつけてある・・・それは男性的要素のまわりで、魅力あるピルエットを踊る女性的要素である。直線とアラベスクの線、意図と表現、意志の剛直と言葉の柔軟、目的の単一と方法の多様、天分の全能で不可分なアマルガム/p46

悪の華』のなかには、運動のイマージュとして、蛇行したり、旋回したりする曲線を描くものが多い。前節の渦巻きもその例である。なぜなら「唐草模様は最も精神的な模様である」からである。/p57

以上『近代詩人論』より