:万足卓『泉の詩―ドイツ詩評釈』(郁文堂 1980年)


 昨年大阪古書会館の古本市で購入したもの。著者についてはまったく知りませんでしたが、思い切って購入してよかったと思います。


 バロック期から現代までのドイツ詩の厖大な財宝のなかから、泉に触れた詩を取り上げ、独自の鑑賞眼をもって、自由闊達な解説をしています。読み返すたびに味わいが増してくるようです。


 ジレージウスからニーチェを経てリルケへといたるドイツ詩の泉に関する一筋の流れを見つけたり、時代を越え同じ形の水盤を歌った詩を比較したり、また国を越えて泉をテーマとした漢詩や俳句との比較を行なったりしています。


 詩形に関心が高く、ギリシア・ローマ時代に流行したという双詠(ディスティコン)を使ったメーリケの詩の技法と日本の短歌にある連作の技法と比較し、その詩の一節を会津八一のひらがな歌のように訳したり、自由気ままで軽妙な筆の運びも感じられました。戦前の外国文学者の層の厚さはなかなかのものですね。


 ヨーロッパの泉を日本の灯籠になぞらえた説明(p139)は、文化の違いを越えてとても分かり易く腑に落ちました。


印象に残った詩句を引用しておきます。

神に向かいて叫ぶべからず。身の内に泉こそあれ。/その涌き口を閉ざさずば、とこしえに涌き涌く流れ。(アンゲルス・ジレージウス)/p7

今ここに君の外なる目にて見る薔薇の花、/かくのごと神の内にて永遠(とわ)に咲き匂うかな。(アンゲルス・ジレージウス)/p10

我を包む夜を通して/我を眺める音の光(ブレンターノ)/p31

そのかみの絵硝子の窓に絵も失せて/噴き出る泉のおもかげはなく、/しづくする床(ゆか)も、揺らぐ光も見えず、/ただ秋の陽のひろびろと入る。/黒き影を床に落とせる大理石の/水盤にはいま水さえ満たず。/秋の陽にも心ありてか、窓のそとの/荒れたる跡に咲くを見よとや。(メーリケ)/p96

深い泉の底に見えるのは/おのれの像、それを囲む夜/おお 飲め!千々に像はくだけて/光あふれる。(デーメル)/p115

他にもハイネ「受難華」などありましたが長くなるので割愛。


印象に残った文章。

詩歌は言葉の音韻を抜きにして、あるいは言葉の匂いや響きや移りなどを考えないで、読まれてはならないのである/p4

近代の純粋詩とか、あるいは絶対詩とか呼ばれるものは、このあたり(マイヤー「ローマの噴水」)から始まっている/p112

水の出口は・・・ギリシア時代からの伝統に従って、メドゥーサの女面などが使われていた。その仮面の口から水が吐き出されるのだ。すでに充分ロマンチックであり、リルケ風である。常識的には仮面というものは人間の顔に懸けられるものだのに、この仮面は水の顔に懸けられている。・・・水路が数々の古い石棺のそばを過ぎて、水とともにくさぐさの古い話を仮面の口まで運んで来ると、その仮面の頤(年を取って黒ずんでいる)を伝って、その前の水盤へしたたり落ちる。このメタファーの豊かさ!・・・その水盤が耳なのである/p163

オルフォイスへのソネットの最終篇最後のあの驚くべき三行の境地に達するには、ここからそれほど遠い道のりではない―してもし地上のものが君を忘れたならば、/静かな大地に向かっては言え「われ流る」と。/過ぎ去る水には告げよ「われ在り」と。/p166

「飛び砂」とは、砂浜や砂漠などにおいて風に運ばれる砂のことで、それが積ると、砂丘になる。・・・この詩でいう飛び砂は、そのような砂粒の飛び砂ではなく、「時間の飛び砂」である。そもそも時間は目に見えないものではあるが、砂時計などによって時間を計ることができるので、砂と時間は無縁ではない。「時間の飛び砂」という冒頭の一語によって、我々は過ぎ去った幾世紀もの大時間の前に突然つっ立たされる思いがする。/p179

この世は、酒に酔った神の夢です。神々が集まってフランス風の宴会をしている時に、ひとりの神が中座をして、ひとつ離れた星の上に寝転んだまま夢を見ています。その夢がこの世界です。/p192