:川本皓嗣『日本詩歌の伝統―七と五の詩学』(岩波書店 1991年)

 
 すべての論文が素晴らしく感じられました。とても読みやすく分かりやすい。あとがきで「言いたいことの要点は、ほぼ本書の三章に尽きる」と言い放っているように、この本を読めば日本の短詩型の特徴と全貌が分かるように思います。


 川本氏はとても頭のクレバーな方と見えて、複雑な短詩の歴史を総覧し、日本の音韻論を総まとめしており、広く高い視点から見下ろしているような爽快さがあります。その解説を読みながら作品を読むと、理解が深まり味わいが増すように思えました。


 第一章「秋の夕暮」では、日本の短詩型文学が、作品の背後にある伝統という暗黙の共通理解(コノテーション)を利用して、短さという制約を打ち破る表現力を得たことが、多くの角度から検証されています。そして美とは目新しさに存在することをちらりと述べています。

 第二章「俳句の詩学」では、前半で、俳句の極端な短さを補うために生み出された具象性の描き方と伝統の援用(一章でも取り上げた)について説明していますが、最終的には「言葉」の世界であることを納得させられました。
 次に俳句の構造を基底部と干渉部に分けてその特徴を考え、誇張法と矛盾法という二つの修辞的な技法を解説。ここでも驚かせ衝撃を与えることが美学の根底にあることをちらりと述べています。

 第三章「七と五の韻律論」では、これまでの日本の韻律論が取り上げてきた拍子の問題を各論者の説を辿りながらまとめています。四拍子が基調で、強いアクセントを冒頭に持つ二音ずつが組み合わされている基本構造の説明は目からうろこが落ちる思いでした。五字句や七字句のなかにある一拍の休止がリズムに変化をつける役割をしていることや、近世歌謡の軽さの秘密が弱アクセントの始まりから生じていることなどが理解できました。


 恥ずかしながらこの年まで、まともに音韻論を読んでませんでしたが、575をさらに細かく韻律を分けることなど、日頃もやもやと考えていたことが目を見開かされたように思います。土居光知や荒木亨の本などは持っているだけで読んでませんでしたので。

 確かに、先日、姫路の書写山円教寺へ行ったとき、お坊さんが和文の七五調のお経を誦していましたが、リズムに注意して聞くと、四拍子のリズムを取っていて、五文字の後は長く伸ばして四拍分に調整していました。


 川本氏は比較文学科ご出身らしく、比較文学的視点があちこちに顔を覗かせていて説得力があります。夕暮の章では、フランス象徴詩の夕暮との比較、俳句論では、芭蕉の句の英訳作品との比較、五と七の韻律論では、英詩のリズムとアクセントとの比較など。
 「吹かぬ笛聞く」というフレーズをめぐって、マラルメの短詩『聖女』の最終行「沈黙を奏でる女」を思い起こしたり、陶淵明の「無弦琴」、孔子の「無声の楽」、荘子の「無声に聴く」、淮南子の「無音の音聴く者は聡し」などとどんどん広がって行く様は、読んでいて本当に面白く楽しいときを過ごすことができました。


 下手な分かりにくい要約はやめにして、印象深かったフレーズを直接引用しておきます。

詩語と一定の情緒との間の短絡があってはじめて、わずか十七文字の間にあれだけの抒情的インパクトを盛り込んだ俳諧というものが成立しえたともいえる(p5)

彼ら(西洋)における頽廃あるいは凋落は、精神の衰弱を意味するものではなく、逆に、ひとつの文明の絶頂、豊富と洗練のきわみにたたずむ者の透徹した意識と、すべてを見尽くした者の倦怠や諦念を含む精神の状態なのであり、この時期の詩にあらわれる秋や夕暮においては、つねにこうした豊かな充足感と崩壊への予感が背中合わせになっているのが感じられる。(p10)

「たんぽぽ」と言いさえすれば、それでたちまち紙上に黄色い花が現れるわけではない。それでもそこに、確かにたんぽぽの花が咲いているとわれわれに信じさせるものは、もっぱら詩人の腕、言いかえればそうした効果を挙げるようにことばを選び、そして組み合わせる能力に他ならない。(p77)

早くからロマン・ヤコブソンが指摘しているように、写実主義はいつの時代にもあった。「ロマン派や・・・デカダン派や、さらには未来主義、表現主義等々の連中も、みな執拗に、現実への忠実さ、最大限の本当らしさ、つまりはリアリズムこそが、彼らの美的綱領の根本原理だと、繰り返し主張してきた」(p77)

→幻想も本当らしくないと面白くないですからね。

俳句は直接的な抒情の表出を避けるという意味で、具象的であり、写実的でもあるが、その具象性や写実性を支えているのは、現場報告の迫力でもなければ、細部に至るデータ描写の客観的な正確さでもない。・・・全体は構成されたもので写生ではない・・・肝心なのはそのように、さっとひと刷毛でごく一般的、模範的なイメージを提示する語句どうしの面白い組合せ、つまり構成と、そしてリアルさを保証する「耳慣れない」表現の工夫なのである。(p83)

「あかあかと」「ひやひやと」「ひょろひょろと」「やすやすと」「どむみりと」「ぴいと」・・・といった擬音語、擬態語のたぐい(ことに同音の繰り返しを含むもの)もまた、「素直な」写実というよりも、・・・わざわざ選び取られた誇張表現とみるべきもの(p114)

きわめて異質な語句やイメージをたがいに突き合わせ、そのちぐはぐな取合せの与える抵抗感あるいは衝撃を、詩的意義発見への強力なばねとして利用するというのは、込み入った理屈をこねる余裕のない俳句にはうってつけの、はなはだ有効な手段といえるだろう(p136)

「蛸壺」と「はかない夢」との強引な結合は、例えばイギリス十七世紀の形而上派詩人について言われるような、「奇想」に類するものと見ることができる(p138)

散文詩とふつうの散文・・・とを区別する特徴を見つけようとして・・・さまざまな分析が試みられてきたが、いまだに満足な成果は挙がっていない。・・・リファテールによれば、その差は実はテクストそのものの性質ではなく、読み手側の態度の違いにある(p201)


 この本とは直接関係ありませんが、引用されている短歌を読んでいたら、神がかりのように突然、その上代、平安期の場に居るような気がしてきました。写真が昔の情景を記録するように、当時の情景を記録している媒体として、歌を想像して味わうことが、鑑賞のポイントの一つ、昔の歌を読むたのしみではないかと思いました。「タイムマシンとして歌」といえばいいのでしょうか。