:阿部筲人『俳句―四合目からの出発』


                                   
阿部筲人『俳句―四合目からの出発』(講談社学術文庫 1998年)

                                   
 江國滋の『阿呆旅行』で激賞されていたので読んでみました。なるほど、初心者の私には、実際の句作に参考になるような注意書きがたくさんあったので、勉強になりました。いくつかの点をあげてみますと、
①無駄を省くこと。「当然に予想される常識的な範囲の事柄」は言う必要はない。
②世間に転がっている通俗・既成修辞を排斥する覚悟を持つこと。
③初心者は「五 七五」か「五七 五」の形に整えること。
④一方で切れば、他方は流すこと。「や」「かな」を一句の中に重ねない。終止形が二つ続くのを避け、下の方を連用止め・連体止めにするなど。
⑤互いに関係し合う語は密着して置くこと。
⑥文法上の混乱を避ける。自動・他動・受身の混乱、活用形の間違いなど。
⑦余韻を持たせるつもりの「も」や、理屈を匂わせる「に」には注意すること。
⑧抽象名詞、形容詞、副詞は避け、具象名詞・動詞の一本槍で突き進むこと。
⑨軽率な省略語、漢語、固有名詞は避ける。「やまと言葉」を尊重する。

 活用形の間違いなどは、もう一度文法を勉強し直さないといけない気がしました。これまでいくつか俳句の入門書を読んで、その時々になるほどと思っているようなこともありましたが、何度読んでも右から左へ抜けて行くのは、実際に句作を心がけてないからでしょうね。
                        

 この本の魅力は、実作に役立つ指摘があること以外に、いろんな作品を例にあげてボロカスにこき下ろすその表現が面白いことです。例えば、

 あさはかな理屈の竹光を大上段に振りかぶり、滑稽なほど陽性ですが、逆に理屈を裏にこめて極めて陰性な、しみったらしいグループがあります。こんなのは俳句の羽織を着た理屈の棒杭であります(p91)

箸にも棒にもかからない代物が、五七五の仮面をかぶって右往左往します(p108)

 無意味に繰り返しに十二字を重ねたりします。ゆっくり経過を示すつもりが、かえって作者の間延びした阿呆さをさらけ出しました(p145)

 累々と濡れて焚火に埋まる漁夫―この漁師は当然に焼け死にますが、火葬場に持って行く手間が省けました(p213)

 ミキサーの炎暑のビルを練り上げる―建築の過程を全部飛躍したので、練羊羹のように軟らかいビルができました(p214)

 芭蕉や子規、虚子など大家の句も「虚子・・・大御所的存在が、かかるていたらくですから困ったものです」(p190)というように、批判にさらされています。


 指摘も鋭く鮮やかで、初めはふんふんと頷きながら読んでいましたが、途中でその居丈高な様子にだんだん腹が立って来ました。悪い点をあげるとすると、
①反復が多く冗長、半分の量に十分できる。
②批判することばかり多くて、成功例を示すことが少ない。
③拠って立つところが俳句の具象性を尊んだ写生の論の延長上にあるもので、俳句の可能性を狭める議論になっている。
④マンネリを排撃するあまり、文芸の根本である喩自体も否定しているかに見える。
⑤腹が立ったのは、大人が若者の素朴な夢想や老人の心からの追憶を馬鹿にしているという印象があること。言葉を変えれば、上位に行けなかった将棋さしが、定石はこれだと素人を集めてふんぞり返っているが、自分はそれ以上強くなれない、なぜなら上を目指していないから、といった感じ。ちょっと悪く言いすぎたのは、著者の口の悪さが移ったのかもしれません。


 著者の論に触発されてその延長線上で考えたり、また反発していろいろ感じたことは、
①俳句や、無季俳句、自由律、川柳をはっきり区別しなくともいい。作品そのものが重要。
②「配合」「取り合わせ」の飛躍的関連の手法がとても魅力的なこと。
③文脈の間違いが不条理俳句とも言うべき新しい俳句の道を開きそうに思えること。
④古い語彙を使った句を著者は否定しているが、旧い世界に遊びたいという郷愁をくすぐられ、味わいがある。
⑤他人に見せずにしまっておくポケット俳句を、表現の本義からはずれるものとして著者は否定しているが、日ごろ我々が撮っている写真のことを考えれば、それもいいと思う。
⑥ここで推奨されている句は、他の芸術ジャンルで言えば、写実絵画に近い分野に限られている。ロマン派音楽のような句はそもそも成り立たないのか。
向井敏氏が解説で、「紋切型表現の点検を通じて日本人に通有の発想の型をありありと浮びあがらせた」と評価していたように、紋切型を単に否定するのではなく、そこに神話的原型的感性を見つける道があるように思う。「季語」というのももともとそうしたものではないのか。