:杉田英明編『桃花源とユートピア』(平凡社 1989年)、芳賀徹「桃花源の系譜」(『文学の東西』日本放送出版協会 1988年所収)

///
 昔から、異界訪問譚が好きですが、『桃花源とユートピア』を手にして、異界訪問譚のアジアでの原点とも言うべき「桃源郷」を中心に、知らない話がたくさんありそうなので読んでみました。その解説の中で、芳賀徹の「桃花源の系譜」のことが出ていたので合わせて読んでみました。


 杉田英明編『桃花源とユートピア』は「東洋文庫ふしぎの国」シリーズの第5巻として刊行されています。このシリーズは、平凡社が自社の東洋文庫の宝に目をつけ、PRを兼ねてテーマ別に抜粋解説したもの。先日さらにPR色の濃い『東洋文庫ガイドブック』を古本で購入しましたが、これもなかなか読ませるのは、東洋文庫自体の魅力がなせる業でしょう。

 杉田英明はその『東洋文庫ガイドブック』で東洋の詩の訳詩について味わい深い文章を寄せています。また『事物の声 絵画の詩』というアラブ文化に関する大著を書かれていて、なかなか面白そう(実はまだ読んでいません)。芳賀徹の大学での教え子のようです。

 『桃花源とユートピア』は、そういうわけで東洋文庫に収められている40強の本からの抜粋で成り立っていて、最後に杉田英明が少し解説しています。その冒頭で「人は誰しも行ってみたい憧れの地、帰りたい郷愁の風景を持っている」と書いているように、この本で扱っている異界とは、現実の世界から逃れることのできる理想的な安住の地です。

 中国の桃源郷に始まり、神仙境訪問譚、日本の隠れ里、浦島説話、常世の国、耳らくの島、中国の徐福伝説、イスラムの楽園の話や、最後には明治期に西洋人から見た理想郷としての日本を描いた文章などが紹介されています。
 我々が西洋を憧れるように西洋人も東洋に理想郷を求めていたというのが面白い。身の回りにあるものには感動しないということですね。
 
 とくに印象に残ったのを列挙すると、
桃花源『幽明録・遊仙窟』(p8)、桃源行(王維)(p9)、春、若耶谿に泛ぶ(綦母潜)(p15)、天台の神女『幽明録・遊仙窟』(p41)、桃の実の仙境『酉陽雑爼』(p45)、瓜穴 『酉陽雑爼』(p46)、玉女山 『酉陽雑爼』(p48)、天台山の隠士『剪燈新話』(p56)、十津川の仙境『伽婢子』(p60)、常世の国『おなり神の島』(p85)、下界の仙境『伽婢子』(p89)、隠里『伽婢子』(p96)、浦の嶼子『風土記』(p112)、伊勢兵庫仙境に到る『伽婢子』(p131)、円柱の都イラムの物語『アラビアン・ナイト』(p158)、洞窟の向こう側『七王妃物語』(p162)

 ここではないどこかへ憧れるのはどの時代、どの場所でもつねにつきまとうもので、私の好きな異界探訪の話は探し出したら切りがないほどたくさんあります。正面切ってテーマにしていなくても、どんな小説でもどこかに必ずそういう要素があるように思いますが、そもそも小説や物語そのものがここではないどこかへ誘うものなのでしょう。

 異界といってもいろいろあって、ほのぼのした楽園もあれば、死後に行く安住の地(西洋も東洋も西の海のかなたに楽園を夢見るのは落日と何か関係があるのでしょうか)、感覚を刺激するような悦楽の園、逆に悪夢のような恐ろしい異界、また狐につままれたような不可思議な異界など、いま読んでいるマルセル・ブリヨンがまさに、そのテーマの権化のような存在ですが、一度ゆっくり考えてみたい話題です。


 『桃花源とユートピア』はいろんな話を集めることが目的なので、桃源郷の成り立ちや日本への影響、ユートピアとの比較を考えるという点では、芳賀徹の「桃花源の系譜」がこの問題をよく整理され丁寧に解説されています。

 芳賀徹「桃花源の系譜」は収められている比較文学論集『文学の東西』のなかでは傑出しています。それは島田謹二先生の直結の弟子ということで、比較文学に対する思い入れが他の人に比べて強いからでしょうか。

 「桃花源」についての印象深い論点を下記に整理してみます。
1)リアリズム:時期や場所をその時代からそう遠くないところに設定、具体名もあげるなどのなにげなさで「本当らしさ」を担保。
2)忘却の重要性:イニシエーションの第一段階として現実を忘れさせる段階がある。
3)なぜ桃の花か:神話や民間信仰や美的イメージの裏づけとともに、実際に作者の庭先に桃の花があったことが推測される。
4)異世界に入る前の洞穴の意味:性愛的な含意をもった谷間のシンボリズムが潜んでいる。老子玄牝が引用される。
5)東アジア農村風景:その郷愁に満ちた平凡さが幸福のイメージにつながる。
6)鶏鳴き犬吠えの意味:田園の平和を象徴する定型を形づくる。このイメージは時代を越えて継承されていく。
7)西洋ユートピアとの比較:桃の花咲く農村共同体は西洋ユートピアの対極。ユートピアは近代人の向上願望の対象、桃花源は郷愁の対象。→西洋も近代のユートピアでなく神話時代の楽園は桃花源に近いと思うが。
8)桃源郷の詩人蕪村:日本で桃源の想像空間を内在化させ定着させたとして評価。


 杉田英明がこれに付け加えている点で重要なのは、下記の指摘でしょうか。

徳川日本の人びとの海の彼方の未知の世界=ユートピアへの尽きせぬ好奇心と憧れとが変わることなく働き続けているさまを見ることができる・・・そしてそれが、近代の開国後、日本人が外国、ことに西洋に憧れ、実際にそこへ出かけてゆくはるかな原動力につながってゆくのだ(p232)