:村上光彦『イニシエーションの旅―マルセル・ブリヨンの幻想小説』(未知谷 2010年)


 マルセル・ブリヨンについて日本で初めての論集が昨年末出版されました。すでに『鎌倉幻想行』で若干ブリヨンについての言及を行い、『幻影の城館』『砂の都』を翻訳されている村上光彦氏というので、さっそく飛びついて読んでみました。

 ブリヨンの全小説のうち3分の2程度にも及ぶ作品が紹介されていて、これから原文を頑張って読もうと思っていたものが結構あって、ありがたいようなもったいないようなふしぎな気分となりました。
 
 ブリヨンの作品を特徴づけるキーワードを、この論集のタイトルともなっている「旅人の異界への参入」と捉え、そのあり方をいくつかの軸から眺めて論じています。
 ひとつは、子どもの頃氷屋の氷塊へ入っていく空想をしていた主人公が大人になって冒険をしたとき、山塊に行き当たり氷の通廊を通ることになりそのときのことを思い出すという具合に、子どもの頃の空想が大人になって現実の世界とつながるという組み立て、
 それから、陶器の彩飾・レース模様・綴れ織り・絨毯などに入り込み、その異空間を生きるという、現実の事物が異界に変容する場面、
 主人公が散歩の途中幽霊が演じる劇場に迷い込んだり、ある時代の幽霊の集まる庭の生け垣に闖入したりという、ある場所に異界が出現するという場面、
 人形が生ある存在のように動き出し、異界を出現させるという仕掛け、
 悪魔の楽器が人間を狂わせたり、音楽が幽霊を呼び寄せたり消え去らせたり、音楽が持つ力をテーマにした物語、
 現実と空想が混じりあう場としてのサーカス、カーニヴァル等。

 第2章「絨緞の中の迷路」第3章「幽霊劇団と幽霊バレリーナ」の辺りが説得力あり圧巻でした。第5章は若干散漫。

 この本で紹介されているブリヨンの短編集『深更の途中下車地』のなかの「旗艦」については、私も読んでいて、このブログでも08-11-29で感想を書いています。
 (http://d.hatena.ne.jp/ikoma-san-jin/20081129/1274831736
 そのとき、この話だけ何を書いているのか皆目分かりませんでしたが、今回紹介を読んでみて、とても魅力的な内容ということが分かったのは本当に情ないことです。また、この本のタイトル自体私の場合は「深夜の彷徨」とごまかしているし、短編のタイトルも「船長」と誤訳していたことが判明して、恥ずかしい思いです。まだまだフランス語を読んでいるとは言えないということが身に沁みた次第。

 「精霊劇場」、『異邦の鳥の歌』『魔術師』『枯れ木の影』など早くを読みたい気持ちにさせられました。

 難を言えば、引用が多く、またその引用のひとつひとつが長文であるというところ。ブリヨンの作品世界にどっぷり浸れることは間違いありませんが、私のような読者では、茫洋とした世界に巻き込まれてしまって、論文全体の骨組みを読み取ることができなくなってしまいます。

 ガラス・オルガンorgue de verreについては、以前読んだときにグラス・ハーモニカではないかと自信なく思いましたが(なにせ原文なもので)、形状や、不吉な力が備わっているという記述から、どう見ても、グラス・ハーモニカのことだといまは思います。

 また、細かい表記の話になりますが、ダウランドのことをドゥランド(仏語読み?)と表記されているのは、素直にダウランドでよいのではと思いました。

恒例により、印象に残った部分。

無意識の底から噴出してくる心像のあとを追いながら、心の目に映る光景をそのまま写してゆくというのが、マルセル・ブリヨン幻想小説の手法であるように思われる。・・・彼の言によれば、彼はいわば小説のための筆先となり、小説は《自分で自分を書いてゆく》のである。「長編小説がわたしをつうじて書かれてゆくのです」・・・いったん幻想が尽きると、彼は待つ。ただ待つ。待っていれば、やがて幻想がふたたび湧きだしてくるのを、彼は知っているのである。/p1

そのとき男の子はこういうことを理解した。―ある物体がここにあってしかも同時にここにないということがありうるのだ、と。・・・絵に描かれた旗艦はその船の表徴でしかない、つまり人間が使う言語における文字のようなものでしかない、ということを。乗船するときには絵に描かれた旗艦に乗り込むのだが、じっさいに航海するときには、空気と光とでできた動く船に乗っているのだった。(「旗艦」よりの引用)/p37

作者自身の経験を背後に想定させる内面散策の方法が記されている。それは美しい絨緞を見つめることであって、そのとき彼の外にあるはずの絨緞が、ある瞬間に彼の内面風景と化するのである。/p43

彼が近づいてゆくと彼女は顔を挙げたが、その目は眩しそうに光っていた。その直前までレースのなかの雪の降り積もった庭に迷い込んでいたからである。(『蝋の薔薇』より)/p46

夢を見ている主体が、いま自分は夢を見ているということに気づきかけたとき、夢の織り地がたいそう薄くなってしまうので、夢の主体の、なかば眠り、なかば覚めている意識が、夢の主人公の意識に乗り移ってしまうばあいがある。そのとき、夢の主人公は、夢を見ながら《これは夢だ》と思う。・・・同様にして、幻想小説の主人公ないしは語り手の意識のなかに作者の覚めかけた意識が流れ込んでくると、『幻影の城館』の語り手のように、彼は自分を呪縛している林苑の客観的実在性を疑いだして、それは《わたしの内側に存在している》のかもしれぬと考えだすのではなかろうか。そのとき、語り手の周囲の事物の実在性が薄れていったり、事物が事物として固定されずにゆらめきだしたりするのではないか。/p55

ぼくの生涯のすべての出来事が瓶の曲面に繰り返されるのが見えたよ。(『ぼくたちは山を越えた』よりの引用)/p57

作者の言語空間が単一の全体をなしているため、その内側に呑み込まれてしまった読者にとっては、同じひとつの空間内の出来事の表象であるかぎり、日常的な表象も非日常的な表象も等価の現実性を帯びて迫ってくるからである。/p60

マルセル・ブリヨンは『ロマン主義と絵画』の序論中で、アントワーヌ・ヴァトーについて語るさいに、バロックロマン主義とは截然たる区別がつけにくく、後者は前者の延長のようなものとも見られる、としている。彼が言うには、ロココは独立した美学的・社会的現象というより、バロックのひとつの《状態》とみなすことができる。そして彼は、ロマン主義のいくつかの主要な流れはそのロココから発しているとし、/p184

音楽の波を介して他者の魂を内的に感得できるから/p194

だれもが持っている《中心の火》というのは、ブリヨンが作品中でしばしば言及している《地球の中心》に燃える火から分かたれたものにほかならぬ。人はこの二つの火―小さい火と大きい火―とをつなぐ目に見えない糸をつうじて、宿命的に集合的無意識から生のエネルギーの補給を受けている。/p220

あるとき、テレンス・フィンガルは、まるで罠にかかったように、運河が同心円状に幾重にも掘られている都会から出られなくなってしまった。「その都市は途絶えることのない夜に包み込まれていた。・・・(『枯れ木の影』より)/p232

幻視家の心像について理屈を立て解釈を試みるのは、そもそもの初めから見当違いなのである。解釈などは慎んで、すなおに幻視の神妙さに感じ入ることこそ、ブリヨンのような作家の読み方としてわたしの選びとるところである。/p304