:窪田般彌『幻想の海辺』


 ずっと昔に読んだつもりになっていたんですが、読んでなかったみたいです。読んでいても覚えていないので同じようなものですが。


 著者の比較的早い時期の著作、1950年ごろから70年ごろまでの20年間にわたる雑多な論集を集めたものです。タイトルは「幻想」ですが、「幻想」という言葉に集約できるものは3分の一ほどもありません。「黄昏の詩人アンリ・ド・レニエ」「フランス幻想小説」「反レアリスム考」「文学と幻想」「モーリス・ブランショ」「モロー孤独な幻視者」ぐらいでしょうか。


 楽しみながら書いていると感じられ我々も楽しく読めるのは、やはりカザノヴァやレニエなどについて書かれた文章で、著者晩年のおおらかな気風に通じる気がします。これに反して、ごく初期に書かれたエリュアールやブランショについての論文は、20代半ばの気負いが感じられ読んでいて堅苦しく感じられます。昔はこういう隙のない断言調の文章が好きだったのに、年を取ると変わるものですね。


 「ロンサールの方法」は20代の執筆にもかかわらず、著者らしい柔らかで艶のある文章で感心しました。がやはり次のような高揚感は若さならのものでしょう。

ボードレールをして「太陽の聖なる子」と呼ばしめた美酒の世界こそは、詩人に「希望や、生命や、若さ」を注ぎ込んだに違いなかった。不幸な、呪われた宿命を背負ったボードレールは、酒と阿片とアシシュの中に「人工の楽園」を見ることだけで己の孤独をまぎらわし、冷たい人生を味わったに過ぎなかったが、ロンサールはそこに、生の躍動と暖かい人生の幻影を見たであろう。・・・われわれは、また思い起こさねばならない。「吾等をして、その生のいと美しき日の束の間を味わわしめよ」と湖に呼びかけた詩人の言葉を。或は、「瞬間よ!御身のある所に如何なる力を生ずるか誰が知ろう」というジイドの警句を。「思い出はかりの角笛、その響きは風の中に消え失せる」というアポリネールの一詩句を。/p102

 「幻想」と「現実」に関連して、著者は、西脇順三郎の「現実というもの程内容が種々あるものはない。結局、すべては現実である。」という言葉を引用し、次のように続けます。

 どうして、サンボリスムシュールレアリスムがレアリスムでない、ということができるだろうか。表面的な現実描写や、色あせた「ナチュラリズム」の残骸に過ぎない「人生の断面」などだけが、なぜレアリスムなのか。/p137

 すべては文学上ではレアリスムなのだという主張です。逆に言えば文字を使っている限りレアリスムであろうともすべては幻想だと言うことでしょう。

 この本で、中原中也が、ギュスターヴ・カーンやネルヴァル、レッテ、マラルメボードレールなどを翻訳していることを知りました。さっそく読んでみなくては。

 またビアズリーの小品「アウフレイの森」(喜多村進訳)の引用がありましたが、素晴らしい文章だったので、これも探してみようと思います。

 恒例により、この他印象に残った文章を少々。

 まことの賢人は、永遠の「時」の間には一切の事凡て空しく、愛と雖も猶空の色、風の戦ぎの如く消ゆべきを知りて砂上に家を建る人なり。(永井荷風訳レニエ)/p72

 詩人にとっては、詩型とかスタイルとかはその詩を純化するか否かに、詩的な美しさに如何なる影響をもたらすかということに問題がある。/p81

 膨大な資料をもとに『ランボーの神話』という大作を著したルネ・エチアンブル教授に対して、ルネ・シャールが放った言葉

 二十歳の頃に、『イリュミナシオン』の作者にあまりにも烈しく傾倒しすぎた一人のけなげな教授が、四十歳になって滑稽にもそのことを後悔し、薔薇色がかった装幀の2冊の部厚い古文書決定版のなかに、現在の悔いと入りまじった昔日の幸福を復原して見せてくれているが、その蒐集の労苦は、われわれの読書を支配する驟雨や太陽の光に、雨の二しずくをつけ加えもしなければ、余分に二切れのオレンジの皮をつけ足しもしない。/p194